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 翌日からエイトとの鍛錬が始まった。まず朝起きて闘技場で行き、体力を戻すためにひたすら走り込みをする。その後、筋力をつけるため筋肉トレーニングをしたり、と朝の鍛錬の時間はあっという間に終わった。
 もちろんジャックも朝起きてエイトと一緒に闘技場に来たのだけれど、闘技場の壁に寄りかかってウトウトとしているだけだった。見兼ねたエイトが部屋で寝るように促してもジャックは首を縦に振ることはなく、結局最後のほうは眠りこけていた。


「全く、寝るなら部屋で寝ればいいのに」
「メイのことが気になるんだろ」
「そ、そんなこと」
「ないとか言うなよ」
「…………」


 エイトは腰に手を当てて、流し目で私を見て口端を上げる。顔が火照るのを感じながらエイトをじろりと睨み付けるように見れば、エイトは苦笑いを浮かべて両手を挙げた。


「そんな顔で睨み付けるなって」
「…エイトにいじられる日が来るとは思わなかった」
「そうか?んー…、なんかお前たち見てるとからかいたくなってくるんだよな」
「えー…またなんでよ…」


 私がそう言うとエイトは目を細めながら「なんでだろうな?」と返してきた。それを知りたいのはこちらのほうだ。


「じゃ、オレは一足先に戻るから」
「えっ、ジャックは?」
「オレが起こすよりメイが起こしてくれたほうがこいつも喜ぶだろ。じゃあ、また教室でな」
「あ、ちょ、エイ…」


 エイトはそう言うと駆け足で闘技場を後にする。あんなに動いた後なのに、駆け足で出ていくなんてさすがエイトだと思った。
 取り残された私は、エイトを見送ったあと、小さく息を吐いてジャックの傍に腰を下ろす。起きている気配は全く感じられず、どうやらぐっすり眠りこけているらしい。試しに肩を揺すってみる。


「ジャック、起きて。鍛錬終わったよ」
「んー……もうちょっとぉ…」
「いやもうちょっとってここ闘技場だし…」


 ジャックは身動ぎ、再び小さな寝息が聞こえてくる。ジャックの寝てるここは、陽の当たる場所だから余程気持ち良いんだろう。よくこんなところで寝れるものだと呆れながら、私はさっきよりも強く肩を揺さぶった。


「ジャック、起きてって!教室行かなきゃ、授業に遅れるよ!」
「んぅ…じゅぎょーやだぁ……」
「…………」


 なにこの子かわいい。
 そう口に出そうになるのを手で押さえて何とか堪える。それにしても、こんなにも寝起きが悪いのに朝起きれたなんて不思議でならなかった。
 強く揺すっても起きる気配がないジャックに私は呆れて言葉もでなくなる。小さな寝息をたてて眠るジャックを見て、不意に手を伸ばした。


「……柔らかい」


 指でジャックの頬をつつく。ぷに、という効果音が似合いそうな頬の弾力に、思わず頬が緩んだ。そのままジャックの頬をつんつんとつつき続ける。違和感を覚えたのか少しだけ眉間に皺を寄せているけれど、起きないジャックが悪いと開き直りつつ、頬をつつき続けた。


「うぅー…」
「起ーきーてー」
「…いーやーだー」


 あ、起きてるなこいつ。
 いつから起きていたのかわからないが、返事を返すあたりもう完全に目覚めているのだろう。早くしないと授業が始まってしまうじゃないか、と口を尖らせながら私はジャックの両頬を摘まんだ。なんでジャックの頬はこんなに柔らかいんだろうか。


「メイー…いたいよぉー…」
「じゃあ早く起きなさい」
「でもしあわせかもぉ…」
「…………」
「いっ、痛い痛い!ほっぺとれちゃうー!」


 アホなことをぬかすジャックの頬を思いきり引っ張る。そしてパッと手を離すと、ジャックの頬は少しだけ赤くなっていた。両頬を押さえて眉を八の字にさせるジャックに少しだけ罪悪感を覚える。


「ふはーなかなか痛かったぁ…」
「ご、ごめん、そんな痛かった?」
「ん?んー、じゃあ僕も引っ張って良い?」
「え?」
「メイのほっぺ」


 ニッと笑うジャックに、私は言葉を詰まらせる。やり返し、ということだろうか。確かに先に私が頬を摘まんだけれど、それはジャックが起きなかったからであって、声をかけたとき素直に起きていれば、頬を摘ままれることはなかったはずだ。
 そう言ってやりたいのを堪えながら、小さく息を吐く。頬が赤くなるまでつねってしまった私も悪い。


「…思いっきり引っ張ってどうぞ」
「え!本当にいいの?」
「ジャックが言ったんじゃん」
「えへへー、じゃー失礼しまーす」


 ジャックは体を起こして、私の目の前に座った。目を輝かせているジャックの大きな手が、顔に近付いてくる。そして、ジャックの指が私の右頬を摘まんだ。痛みは感じられない。
 ジャックはにやにやと笑みを浮かべながらそのまま何回か指に力を入れたり抜いたりする。その度に頬が伸びたり縮んだりを繰り返していた。


「ふふふー、柔らかーい」
「…まだ?」
「まだー」
「…………」
「メイのほっぺ気持ちいーねぇ」
「別に普通だよ。ていうかもう離して」
「だぁめ。もっと堪能したいもん」


 ジャックの手から離れようと顔を逸らそうとするけれど、もれなくジャックの手も一緒についてくる。素早く顔を引っ込まそうか悩んだが、そんなムキになるものじゃないし、と考えた末、私は反撃することにした。


「…このっ」
「わっ」


 さっきと同じようにジャックの頬を摘まむ。ふとジャックの顔をまじまじと見つめてみると、私が頬を摘まんでいるからか口を半開きにしてきょとんとしていた。その顔に思わず吹き出してしまう。


「ぷっ…」
「ちょ、なに人の顔見て笑ってるのさ」
「だって今のジャックの顔、相当間抜け面だったから」
「むぅ、いきなり摘まんでくるメイのせいだからね」
「はいはい。ほら、手離して。そしたら私も離すから」
「えー…ん?てことはずっと離さなかったらずっとこのままってこと?」
「え?!それはさすがに…」
「お前たち何してるんだ」


 思いがけない第三者の声に体が跳ね上がり、ジャックの頬から手を離す。声のした方に顔を向けると、キングとトレイが呆れ顔で近付いてくるのが目に入った。途端に熱が顔に集まってくる。
 しかし、ジャックは私の頬を摘まんだまま口を開いた。


「キングたちこそどうしたのー?」
「鍛錬帰りのエイトに会ったんです。まだメイとジャックが闘技場にいると聞いて来てみたのですが……」


 トレイはそう言いながら大きく溜め息を吐いた。二人の顔を見られそうにない私は目線を下に向けて首を竦める。
 恥ずかしいところを見られてしまった。穴があったら入りたい。


「ジャック、いい加減手を離せ」
「ちぇ、せっかくイチャイチャしてたのにとんだ邪魔が入っちゃったなぁ」
「邪魔とは何ですか。全く、失礼ですね。私たちはただジャックがメイを巻き込んで授業をサボらないか心配で…」
「わ、私、ちょっと部屋に!戻りますね!!」
「あっ!メイ!」


 トレイの言葉を遮って勢いよく立ち上がる。そして三人の顔を見ないまま、闘技場の出口まで駆け出した。後ろからジャックの声が聞こえたけれど、それに応えられるほど余裕は今の私にはなかった。
 自室の扉を閉めて、大きく息を吐く。あんなに走ったというのに、ジャックに摘ままれた指の感触は残ったままだった。