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 ジャックは既にクラサメ隊長の記憶を失っていた。それが仕方のないことだとわかってはいても、やっぱり悲しかった。ジャックに記憶がなくなったということは、ジャック以外の他の皆も隊長の記憶はなくなっているのだろう。
 私はクラサメ隊長との記憶がなくならない内に、カヅサさんに隊長の保護を頼み込む。こんなことカヅサさんにしか頼めなかった。クラサメ隊長のことを一番理解していて思ってくれているのはカヅサさんしかいないと思ったから。
 唖然とするジャックは一先ず置いて、カヅサさんと通信を続ける。


「カヅサさんにしか、頼めないんです…」
『……とにかく連れてきてくれるかい?』
「…あと数分で魔導院に着くので、裏手にある訓練塔に来てください」
『あぁ、わかった』


 そう伝えるとカヅサさんとの通信が切れる。今はまだクラサメ隊長のことを覚えているけれど、いつ記憶を失うかわからない状況で焦りを感じていた。
 ヒリュウに急ぐよう伝えると、応えるように速度をあげる。


「ねぇ、メイ」
「…なに?」
「メイは、この人との記憶が残ってるの…?」
「"今は"ね」
「"今は"…?」
「徐々にだけど、私もこの人との記憶がなくなりつつあるんだ」


 ヒリュウの背中に臥せているクラサメ隊長の背中に手を置く。少しずつ、本当に少しずつだが頭の中からクラサメ隊長との記憶がなくなっていくのがわかった。


「…僕はこの人と関わったことはある?」


 不意に呟くジャックにハッと顔をあげる。ジャックは眉根を八の字にさせて、私を見ていた。
 この人はクラサメ隊長といって、ジャックとの関わりも何も0組の指揮隊長だったんだよ。そう口にしようとしたが、開きかかった口を固く閉じる。そんなこと言ったところで彼らは一生思い出すことはない。お互い信頼していたことを唯一知っている私としては、皆にクラサメ隊長の存在を、私の口から知ってほしくなかった。
 ジャックの問いに、私は力なく首を横に振る。「わからない」そう呟くと、諦めたように「そっか」とだけ返ってきた。

 それから私たちは会話することなく、魔導院の裏手にある訓練塔へと降り立つ。
 ここは訓練塔と呼ばれる塔と灯台が立てられていた。訓練塔というから訓練するための塔なのだが、今は使われていない。訓練している余裕などないからだ。
 ジャックにクラサメ隊長を背負ってもらい、ヒリュウにはここから去るように命令する。ヒリュウが空に飛び立つと同時に、訓練塔の扉が開いた。視線を扉の方に向けると、カヅサさんが肩で息をしているのが目に映る。


「やぁメイ君。ふぅ…もう若くないのに、こんなに走ったの何年ぶりかな」
「カヅサさん…」
「はは、ボクらしくないね…ああ、それで、保護してもらいたい人って?」
「あ、今ジャックが背負ってる人です」


 カヅサさんがジャックに視線を向けると、ジャックは少し身体をびくりと跳ねさせた。未だにカヅサさんのことを警戒しているらしい。カヅサさんはそんなジャックに苦笑いしつつ、ジャックが背負っている男を見て、少しだけ瞳が揺らいだ気がした。
 暫く黙っていたカヅサさんが口を開く。


「メイ君、ひとつ聞いていいかい?」
「…はい」
「なんでボクにこの人を保護してほしいと思ったのかな?」
「………」


 カヅサさんは真っ直ぐ私を見つめる。クラサメ隊長にとってカヅサさんが、一番身近な存在だと思ったから。これは私が勝手にそう思っているからであって、クラサメ隊長がカヅサさんのことをどう思っていたかは知らない。けれど、カヅサさんはクラサメ隊長のことを心配してくれていた。だから、カヅサさんにクラサメ隊長を保護してもらいたいと思ったのだ。
 でも、それを言ってもカヅサさんが混乱するだけだ。カヅサさんはクラサメ隊長を忘れていて、私がそう言ったとしても、カヅサさんが苦しむだけ。身近な人間を忘れた自分を責めないとは言いきれなかった。マキナと同じように。


「…風の便りでカヅサさんが、記憶の再生に関する研究をしていると聞きました」
「ふむ、その研究にこの男を使えと言うのかな?」
「…カヅサさんがここに来たということは、何かしら気に掛かったからですよね?」
「………」
「この人は今生きるか死ぬかの瀬戸際に立っています。軍服を見るからに、朱雀の武官だったのだろうと推測できます。武官の人数はそう多くはないですし、軍服を着てマスクをしている特徴的な人間を皆忘れているんです。今を生きているのに、誰の記憶にも残っていないこういう異端な存在は、カヅサさんにとって、研究にとって貴重だとは思いませんか?」


 捲し立てるように言う私に、カヅサさんは目を見開かせて、そしてふっと笑った。


「わかった。ボクが責任を持って保護しよう」
「!よ、よろしくお願いします!」
「その代わり、メイ君はたまにでいいからボクの研究室に来ること」
「へ?!なんでメイが…?」
「キミもメイ君と一緒に来るといい。色々、話したいんだ」


 目を細めて微笑むカヅサさんに私は戸惑う。今覚えていても、明日には忘れているかもしれないのにどうして私と話したいのだろうと不思議に思った。そんな私の心情を察知してかカヅサさんがニヤリと笑みを浮かべる。


「メイ君の存在もボクにとって非常に興味深いからね」
「はい、早くこの人持っていってくださいねぇー」
「おぉっと。いきなり渡してくるなんて乱暴だなぁ」
「メイに変なことしたら朱雀の人間でも許さないから!」
「ほんとメイ君のナイトだよね、キミって」


 ジャックはカヅサさんにクラサメ隊長を渡すと、頬を膨らませて私を背中に回した。そんなジャックにカヅサさんは苦笑しながらもクラサメ隊長を大事そうに背負って踵を返す。数歩歩いたところでカヅサさんが急に立ち止まった。


「メイ君」
「は、はい」
「連絡をくれて、ありがとう」


 振り返らずにそう言うと、カヅサさんは私たちを置いて訓練塔から出ていった。