たびにっき - 30

「…ただいま」

出発のときには元気いっぱい叫んだような気がするけど、今は万感の思いを込めてぽつりとそうつぶやいた。
出がけに見た白い世界は、すっかり姿を変えていた。元通り、家が、木が、町がその色を取り戻して、もうしばらくするとやってくる夜明けに合わせて輝くのを待っている。
すっかり歩き慣れたこの靴が、最後の最後で雪に沈む心配もなくなった。
静まり返った故郷は、何も言わずに出迎えてくれた。
お店がある通りまでは、ゆっくりと歩いていく。家に帰るまでが旅だ。こうして終わりが近づいてくると、その瞬間を迎えてしまうのがなんだか名残惜しい。
道沿いに並んだ花壇がまた顔をのぞかせている。花が咲くのは、もうしばらく先かな。毎年、春の訪れはここがカラフルになったら感じるんだっけ。いくら流氷がすぐ近くまで来ているような場所でも、今年はびっくりするくらい雪が降った。花が咲き時を間違えなければいいんだけどね。

ちょっと考えるところがあって、夜明けまでは店に戻らないことに決めた。それまで、いつも過ごしているこの町をゆっくり見て回ろう。灯台下暗しって言うし、見慣れた場所に大きな発見があるかもしれない。本音を言えば、最後の絵を描くための時間つぶしなんだけど。
こんな時間に町をうろついてたら、怪しい人だと思われるだろうか。いや、そんなに大きな町じゃないんだ。それなりに顔は知れてるし、大丈夫だよね。
この町には特別入り組んだところもない。通りがいくつかあるだけの簡単な構造だ。あっちこっち、いろいろと巡ってみるけど、最後は宿の前に来てしまう。ここ以外のお店は開いていないし、入れるところもない。散策するには、やっぱりちょっと不向きな時間だったかな。でもまあしょうがないか。

「いらっしゃいま…あれ?」
「おはようございます、おかみさん」
雪が止んでいても、寒いものは寒い。じゃあ早く帰ろうよって話なんだけど、なんとなく入ってみた。ごあいさつも兼ねて、ね。
「アリュードくん!帰ってきたのかい!」
「はい、ついさっき。こんな時間にすみません」
珍しい時間にやってきた客の正体が僕だと分かった途端に、とんでもないと、おかみさんはカウンターを出てきてぎゅっと僕を抱きしめた。この人、スキンシップが多いんだよね。僕が小さい頃から、ずっとこうだった。どっちかといえば僕が懐いてたらしいんだけど。
「まあまあ、お店を空けてるって聞いてからひと月近くになるもんだから、どこに行ってたのか噂になってたのよ!」
「すみません、突然いなくなって。ちょっといろいろと…」
「聞かせてちょうだい、どこで何をしていたのか…!」
ああ、目がキラキラしてる。こうなると、二、三分でここから離れるなんていうのは至難の業だ。少し暖を取らせてもらうつもりが、太陽が昇るまでおかみさんにがっちり捕まってしまった。
…宿屋って、この時間は暇なんだろうなあ。

元の通りに戻ってくると、時間もいい頃だった。朝焼けも消えて、明るい日差しが町に注ぐ。人もちらほらと見え始めた。すれ違うたびに、「久し振りだね」「お帰り」って温かい声をもらう。一人ずつにあいさつを返していくうちに、懐かしい場所がついに目に飛び込んできた。
ずっと動かしていた両足を、ぴたっと止める。僕のお店の前だ。
一年経って少しくすんだ、軒先にぶら下げた店名を知らせる木の吊り看板。あの日、吹雪の中で懸命に掛けた休業を知らせる看板もそのまま残っている。
始まりの場所で、終わりの場所。
ちょうど向かいに置かれたベンチに腰掛けて、袋から取り出すのはお決まりのもの。最後の一仕事を待つ、長方形の大きな冊子だ。手に取って、思い出すように、ぱらぱらと最初のページからめくっていく。
暑さを忘れて一心不乱に筆を動かしたピラミッド。夜明けとともに世界を見下ろしたネクロゴンド。非現実感と隣り合わせだった精霊の祠。僕の原点を一枚に集約させたルプガナの教習所。そしてこの一日のうちに、一気に描き上げた二枚…溢れる緑の世界樹と、お城の上を飛び回るドラゴン。
もう一枚ぺらっとめくれば、そこはもう最後の白いキャンバス。どんな色に染めようか、その答えは僕の目の前に広がっている。

さあ、終わらせよう。短くて長い一ヶ月を。全てを、この筆にこめて。


がちゃりと音を立てて、ドアがゆっくりと開く。
もう一度の「ただいま」を、ここでつぶやく。もちろん声は返ってこない。一歩一歩進むたびに、ほんの少しだけホコリが立つ。また掃除しなきゃね。さすがに今は許してほしいかな。
暖炉の中には燃え残りがそのまま。見たところ、まだ使えそうだ。
そのままフロアを突っ切って、カウンターの後ろのドアを開けてアトリエに足を踏み入れる。閉めきっていたその部屋には、絵の具の匂いがかすかに残っていた。ひとつ深呼吸をすると、はっきりと鼻に感じる。この匂いもずいぶんと久しぶりだ。
本物のキャンバスのそばにちょこんと置いた小机に、二冊のスケッチブックをそっと置く。持って出た時はまっさらだったけど、今は角が擦れて表紙も曲がって、何年も前のものを物置の奥から無理やり引っ張り出してきたかのような見た目になっている。一緒に舟に乗ったり、山に登ったり。こっぴどく連れ回したけど、よく持ちこたえてくれたな、って思う。ありがとう、僕の思い出を守ってくれて。
今日は一日、旅の疲れを取るために休みにして、明日からこれを丁寧に、画板に乗せる作業をすることにしよう。出しっぱなしの看板も作り変えないとね。途中ですれ違った人たちには「また近々開けますので」って言っちゃったから、なるべく早く店を開けたいし。やることがたくさんだ。
その忙しさが、今はとっても楽しみだ。

淹れたてのコーヒーが入ったカップを片手に、カウンターの席に着く。引き出しを開けて、何もせずに閉じた。今はこれを見る必要はないか。
カップに口をつけて、くいっと。熱い流れが、喉を通る。はぁー…と長く息をついてみたところで、やっと帰ってきたんだと実感が沸いてきた。
行ってきますと町を出て、ほとんどひと月。あの風変わりなお客さんがやってきたとき、僕は言ったはずだ。
「教習所で過ごした一年より濃密な時間が、あるわけがない」
と。
だけどどうだろう。今、僕は同じ答えを口にできるだろうか?
座っている場所も、飲んでいるものも同じ。店に並んだ商品も、あの日と何にも変わりゃしない。時計の針だってちょうどこのくらいの場所にいたはずだ。
だけど、僕の考えだけはまるっきり変わっていた。教習所での一年が薄っぺらいものだったはずはない。でも、この一ヶ月がそれより薄かったとも、僕には到底思えない。剣の道なら前者、絵の道なら後者のほうがきっと濃い。だけど、僕の道はどっちだ。そう、どっちもだ!
こんな質問、何が正しいか分からない。というよりも、その答えに正解はないんだ。だって、新しい答えが、見つかり続けるんだから。あの人は、答えを求めていたんだろうか。イエスかノーかで答えろなんて、一言も言わなかったじゃないか。今更思い出すなんてね。

…と、そろそろ、眠気がやってきたみたいだ。大きなあくびが、邪魔をし始めたぞ。おとなしくベッドに戻って、寝ることにしよう。
この旅行記の役目も、ひとまずはこれでおしまい。絵を描くのも楽しかったけど、これを書くのも、同じくらい楽しかった。
大きいスケッチブック、小さいスケッチブック、それから後で作る七枚の画板、それから…これ。
これだけたくさんあったら、忘れるはずがないよね。


おつかれさま。



最後の六文字を書き終えて、僕は羽ペンを置いた。スケッチブックたちに負けず劣らずボロボロになった手帳の背を、さわさわと撫でる。
知らずのうちに、手記を抱いたまま、やわらかな布団に包まれて、僕は眠ってしまった。


――それから一週間。
この数日で思い出したルーチンワークを、淡々とこなす。起きて、暖炉を明るくして、ランプを灯してフロアを照らす。
そうして、コーヒーを身体に入れてばっちり目を覚ましたら、準備は完了だ。

七枚の画板は、入口のドアがある壁の一番上に並べて飾り付けた。カウンターに座ると、全部がずらっと見渡せる格好だ。いつでも思い出せるように、そして忘れないように。
さて、時計の針が告げている。ひと月ぶりの開店だ。
ドアにつけた看板をくるりと裏返して、一日のスタートを切る。

今日は…どんな人がやってくるかな。


end
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