たびにっき - 29

足を地につけた瞬間、刺すように冷たい風が顔に吹き付けた。思わず目をぎゅっとつぶって顔の前に手をかざしてやり過ごす、そのまま風は後ろに吹き抜けて、ざわざわと木々を鳴らす。振り向かなくても、すぐ後ろに森があることがわかった。
そして目の前には、大きな城が待っていた。いつか駆け抜けた、はるか空の上に通じる地上で最も天界に近い場所。それが、竜の住む城だった。
大きく開かれた城の入口。周りを岩山に囲まれたこの場所は、ほとんど外からの来訪者がいないという。
いつか、このお城についての絵本を読んだことがあった。その昔、このお城には竜の女王が住んでいて、女王はいつも世界を見つめ、訪れた勇者に魔の力を打ち破る力を授ける。そうして生命と引き換えに卵を産み落とす。その卵もやがて孵り、それから…というお話だ。絵本にはその先のことが描かれていなかった。女王の残した卵が割れたところで、物語は終わっている。
この話が本当なら、その昔に世界を救った勇者もここに来たということになる。自分はそんなとんでもない場所に来ることのできる人間のうちの一人なのかと考えると、背筋が張るというか、足取りも自然と引き締まる。

「あら?」
すっと中に入ると、すぐ近くにいた城の住人に気付かれた。物静かな雰囲気をたたえた、透き通るような声のエルフのような見かけの女性だった。
「こんな夜更けに、人間の方がいらっしゃるだなんて。珍しいこともあるものですね」
「…こんばんは」
知らん振りを決め込むわけにもいかない。出て行けと言われるかな、と一瞬身構えたけど、女性はこんばんは、と笑顔で僕を歓迎してくれるようだ。
「人が最後にやってきたのも、一年ほど前のことでした。あなたはそのとき、一団の中にいらっしゃいましたね」
「えっ、僕が来たことがあるって分かるんですか?」
「はい。私はいつもこの場所から、訪れる方を見ています。それに、天界を救っていただいた方のお顔を、忘れるはずがありましょうか」
本当に覚えていたみたいだ。僕のことまで覚えていてくれたのは、ちょっと意外だった。
それにしても、世界や天界を救った、なんて言われると、どこかむず痒くなる。
僕がどのくらい力になれたのか、あまり自信があるわけじゃないからだ。でも、そういうことを言うとキースさんたちやアルムたちは怒った顔をするんだろうな。
「少し、お城の中を見て回ってもいいでしょうか?」
「どうぞ、ご自由にご覧ください」

住人の許可をもらったので、僕は城内を順に見て回ることにした。
長い回廊の先には、いつか女王が卵を産み落としたと言われている小部屋があった。小部屋と言っても、その天井ははるか高く、広間くらいの大きさがある。竜にとっては、これでも小さいんだろうな。
そこは何もない空の部屋だった。竜の女王や王は、今はこの城にいないらしい。けれどこの部屋からは、竜の息吹とでも言ったらいいんだろうか、何か違う気配というものを感じた。もちろん、竜の姿はどこにもない。それなのに竜の住む城と言われ続けているのはどうしてだろうか。この感じだけだと、ちょっと物足りないような気がするんだけど。
回廊を戻って、城の最奥に進むと、そこには大きなステンドグラスが張られていた。この先には、激闘を繰り広げた場所へ続く光の柱があった。けれど天界への道は、今は断たれている。僕がそこに立っても、何も起こる気配はなかった。
ふと、思い出した。隔てられた世界、見えない壁の向こう側で生きる大切な仲間を。
――二人の天使は、元気にしているだろうか。

ドワーフのような背格好の男性も、城の中にはいた。
「竜の住む城ってのは嘘じゃねぇぞ。今でも竜は住んでるんだ」
なんてことを言っていたけど、これまでに竜は一頭も見当たらない。きっと、その昔住んでいた竜たちの魂が今でもこのお城にあるってことなんだろう。
竜の女王だろうか、美しいドラゴンの絵が壁に掛けられている部屋もある。この部屋だけじゃなくて、回廊のところどころにも、竜が描かれた大きな絵が飾ってあるのが見える。
あらかた中を見回して、僕の頭にある「やりたいこと」が一つ減った。
これで、あとはスケッチブックにこのお城を映し出すだけだ。大きな紙の真ん中で二つに割って、お城の全景とステンドグラスを描くんだ。

「お帰りですか?」
城内を一周して入口に戻ってくると、女性は僕が来たときと同じ場所に立っていた。
「すぐ外で、このお城を描きたいと思います。それが終われば」
「そうですか。ごゆっくりご覧になって、いかがでしたか」
「女王さまのお部屋に入ったときに…このお城には確かに竜が住んでいたんだなあ、という不思議な感じがしました。どういう感じなのか、っていうのはうまく言えないですけど…実際のドラゴンを見たことがないので、何と言えばいいか…」
言葉を探しながら説明する。するとその人はまた微笑みを浮かべて、こんな意味深なセリフを残した。
「ここは竜の住む城ですよ。女王さま亡き、今でも」

お城から少し離れて、僕はせっせと準備を済ませる。
そういえばこれまでの五枚には、まだ夜に描いたものがない。でも今は満天の星空が広がっている。ちょうどいいじゃないか。本当なら真っ暗闇で何も描けたものじゃないんだけど、今夜は月がとっても明るい。これなら手元もはっきり見えそうだ。
手頃な大きさの岩が地面に半分ほど埋まっていた。そこに腰を下ろして、城の輪郭を切り取って写す。それから、ついさっき目に焼き付けたステンドグラスを隣に。天界に通じる光の柱を、紙の中でよみがえらせた。

一瞬、月明かりを遮るように影が落ちた。自分の筆先が見えなくなったと思ったら、まばたきをする間に光が戻ってきた。何か大きなものが、頭上で横切ったような違和感。その感覚につられて見上げた空には、信じられないものがいた。

――竜が、翔んでいた。

僕の口はまたしばらく、言葉を発するという仕事を忘れてしまった。
これは何かの夢じゃないか、そんな気さえした。けれど何度目を擦ってみても、頬を叩いてみても、月光に照らされた白い竜は変わらずに、翼を広げてお城の上を旋回している。
はっとして、僕はさっきの言葉を思い出した。
(ここは竜の住む城ですよ。女王さま亡き、今でも)
入口の近くには、誰もいなかった。そうか…白い竜の正体はきっと、あそこにいた女性だ。ここの住人は、きっとみんな竜になれるんだ。いや、逆かもしれない。竜たちが、エルフやドワーフのような姿かたちに変身していたんじゃないか。
この際、そんなことはどっちでもいい。この瞬間を、かならず記憶にとどめておかなければ。そして、記録に残しておかなければ。一体今までに何人の人がこの光景を見たんだろうか。ほとんど誰も見たことがないはずだ!
心臓がいやというほどうるさい。この一枚は、僕にとってとてつもなく重要なものになる。単なる思い出にするには、あまりにもったいない。
六枚目の絵が出来上がった後は、小さい方にも出番を与えて、飛び回る竜だけをひたすら描いていく。描いてはめくる、めくっては描く。何枚も何枚も、見えたままに写し取り続けた。

何枚目かわからないころ、一度背を伸ばしてからまた空に目を向けると、白銀の竜は突然姿をくらましていた。まるで最初から何も飛んでいなかったかのように、辺りはしんとしている。どれだけ目を凝らしても、遥か彼方で輝く星たちの粒が見えるだけ。
そりゃ、ずっと飛んでるわけはないか。
僕はふうと息をついて、用のなくなったスケッチブックをしまう。
目線を空から下に持っていくと、お城の壁のそばに、いつの間にか女性が戻ってきていた。
かなりの距離が開いていて、決して悪くはない僕の視力でも彼女の顔が見えるはずはない。ないんだけど…そのときの僕には、こっちに気付いて優しく微笑んでくれたように見えた。

最高の贈り物をもらって、僕はすっくと立ち上がる。胸のあたりを探ると、ちょうどあと一つ残っていた。手に持ったそれを、じっと見つめる。短い間に、ずいぶんと空の旅も楽しんだ。これまでの羽根は全部、行くべき場所に行くための片道切符。そしてこの最後の一枚は、戻るべき場所に戻るためのチケットだ。
さあ、これを投げた後には、もう一つの「最後の一枚」が待っている。帰ろう、僕の生まれた町へ。

そうして持ち上げた道具袋は、これまでよりずっと大きく、重く僕の右肩にのしかかった。
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