たびにっき - 19
暖かさを感じて、着ていたコートを脱いだ。
間近に広がる海の匂いが、辺り一面に漂っている。対岸にはついこの前訪れた、巨大な港が顔を見せていた。
ふと後ろを見れば、確かに覚えていた通りの灯台がそこにある。
あの時は「向こうに行くにはまだ早い!」なんて思ってたけど、考えが変わってきた。この旅のモットーは「思うがままに」だ。案外気まぐれな自分がいたことに、ちょっと驚いている。
灯台の中は、がらんとしていた。入ってすぐ、道が左と右に分かれていたけど、
外側の形を見ていると多分向こうでつながっているんだろう。真ん中に階段か、部屋か何かがある構造だと見て取れた。
特に考えもなしに、左側からぐるりと回り込んでみると、思った通りだ。階段と小部屋の両方があった。
その中に、僕が期待していた、聞いた通りのものがぽつんとあった。
青白い渦巻きが、大きな台座のような板の上で静かに揺らめいている。いつ見ても不思議な気持ちになる光だ。ジョーさんの言葉が正しければ、これを抜けるとレーベの近くに出るとのことだった。飛び込まない理由がない。
これには何度か運ばれたことがあるけれど、目を閉じていたほうがいいことだけは学習済みだ。ぐわんぐわんと頭が揺れるこの感じ、多分何度体験しても慣れることはないと思う。馬車で酔った僕には、やっぱりちょっとつらいかも。ほんの何秒かで終わるのがせめてもの救いだろうか。

その何秒かというのが、びっくりするくらい長いんだけど。


石レンガ造りの壁に囲まれた小部屋が、旅の扉の行き先だった。まだ少しぐるぐるしている視界が落ち着くのを待って、外へと出てみる。
強い草の匂いが一番最初に頭に入ってきた。その次の情報が、緑が一面に広がっていたこと。どうやら草原に通じていたのは確かなようで、小屋の周りにはこれでもかというくらいに雑草が生い茂っていた。ここはあんまり使われてないみたいだ。好き放題に枝を伸ばす木がぽつぽつと、それに背の高い草がそこかしこに生えている。これだけ放置されているところを見ると、もしかしたら存在すらも忘れられているのかもしれない。
とりあえずは見通しのいい場所に出ようと思って、僕は草をかき分けて進んでいった。やがて緑一色だった視界が開けて、今度は茶色い幹が加わった。どうやら森の中にいたらしい。まだ朝が早いおかげで、方角だけは大体分かる。地図を見ると、北に行けば森を抜けられそうだ。
太陽の位置を確かめつつ、北に進路をとる。駆け抜けていけば、そんなにかからない。


「…ふわぁ」
欠伸が出てきた。その途端に、瞼におもりを吊るされたかのような感覚に襲われた。これまで全く気にならなかったのに、その欲求は急に僕の頭を支配し始めた。
あー、眠気が。ずっと歩きっぱなしだったことすら忘れていたみたいだ。絵のことになると周りどころか、自分の状態すらも分からなくなるのは悪い癖かもしれないな。と言ってもこんなところで寝ていたら何があるかわかったもんじゃない。せめてレーベに着くまでは、頑張らないと。
「…よし!!」
いつかやったみたいに頬を叩き、睡魔を振り払おうとお腹に力を込めて、一言叫んだ。まさか誰に聞かれるとも思っていなかったんだ。だから…。

「…誰かいるの!?」

「っ!?」
自分のものとは似ても似つかない声が聞こえてきたとき、僕は本当に飛び上がったんだ。思わず口元を押さえるけどもう遅い。出してしまった声が戻ってくるはずはないし、もはや後の祭りだ。
足音が近づいてくる。木を隠すなら森の中だけど、人は森の中にきっと隠せない。
仕方ない、ここは身を守らなきゃ。なるたけ音がしないように剣を抜き、握り締める。久しぶりの緊張感に、じんわりと手に汗がにじむ。息を殺すこの雰囲気も懐かしい。戦いに身を置いていた頃を思い出しながら、じっと待つ。向こうが見えたその一瞬で逃げなければ。もしかしたらただの迷い人かもしれないし、それを確かめないで、傷をつけるわけにはいかない。ましてや、それが女性ならなおさら。
「……」
足音が消えた。その代わりに、声がまた聞こえた。
「…もし隠れている人がいるのなら、出てきてもらえませんか?わたしはあなたを理由なく傷つけるつもりはありません」
うん、迷い人ではないらしい。しかも、男の声じゃない。向こうの様子から、交渉の余地はあるようだ。剣の仕事はなくなった。元の鞘に収めて、僕は旅人を装ってこう言った。
「すみません、道に迷ってしまって。レーベに行きたいんですけど」
「…!?」
いきなり見えない場所から声を上げたものだから、相手も驚いたに違いない。ほんのかすかに、息を呑む音がした。
「わかりました、わたしがお連れしましょう。けれどその前に、一つお聞きしてよろしいですか?」
返ってきた声は、いくらか柔らかくなっていた。僕に対して警戒を薄めたらしい。でも、「理由次第では」どうなるかわからない。こっちはまだ慎重に、
「どうぞ」
と返した。

「ムオルにいるはずのあなたが、どうしてこんな辺鄙な場所に迷い込んだのかしら?」
「なっ…!?」
全身が強張るのがわかった。
どうして、なんで僕の故郷の場所がわかったんだ。今のやりとりで、特定されるようなことは何一つ言っていないはずなのに!
ガサガサと、また音が響いた。それは確実に、僕の隠れた木の陰に近づいてくる。もう逃げられないか――。

「…そろそろ気付いてくれてもいいんじゃないかしら。アリュード」

少し寂しげな声が、真後ろから聞こえてきた。
早鐘を打っていた僕の心臓が、だんだんと落ち着きを取り戻していく。そうして、また速くなっていく。最初に眠気覚ましにと上げた声は、後の祭りじゃなくて祭りの前だったことを、ようやく理解した。
「…ごめんね」
安心感と嬉しさで、少し声が上ずってしまった。くるりと後ろを振り返ると、また一つ、懐かしい顔が両目に映った。
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