たびにっき - 6

次に目を開けたとき、僕は馬車の中にいなかった。
ベッドで寝かされているとわかったのは、目を開けてから数十秒後。ついさっきまで闘っていたかのような気分だったけど、もう吐き気も目眩もどこにもない。
ゆっくりと起き上がって、そこで自分がベッドにいると知った。そうすると、次にここがどこか分からなくなった。
あぁ、ダーマに向かう途中で倒れてしまったんだっけ。思い出そうとして、頭が痛くなったりはしなかった。どうやら頭を打ってはいないようで一安心。それを確かめてから、僕はゆっくりと、記憶を引っ張り出そうとした。
そのとき、誰かの声がした。
「あ…」
一瞬ジェイルさんかと思ったけど、全く違った。あまり見たことのない装束を着ている、若い女の人だった。その人は僕を見るなり小さく声を漏らすと、またそっと入ってきたところのドアを開けて出て行った。

それからジェイルさんが息せき切って飛び込んでくるまで、そんなに時間はかからなかった。「リアロスくん!」とものすごい形相で迫ってきたジェイルさんに、僕は腰を抜かしかけた。
「気がついたか!それはよかった、まさか眠りっぱなしじゃないだろうかと…」
「すみません…ご心配をかけてしまって…半日ぐらい気を失っていたなんて」
責任を感じて、ちょっと声のトーンが低くなってしまう。ここまで運んでくれたんだ、ものすごい迷惑をかけたに違いない。
「いや、僕が悪い。君が馬車旅に慣れていないことをもっと注意するべきだったよ…必要以上に急ぎすぎて、君に辛い思いをさせてしまった。今はムオルを出発してから五日目の夜中だ」
「五日目…?」
あれ?ってことは、僕は一日半も眠りっぱなしだったわけ…?
いくら馬車に酔ったからって、そんなに長く眠りこけるものなんだろうか。僕は何かよくわからない病気でもしているんじゃないかと、少し心配になった。そうしたら、それを察したのか、ジェイルさんが説明してくれた。
「君が長く眠っていたのは、ラリホー草のせいだろう」
「ラリホー草?」
「僕があの時飲ませた草だ。あれを飲むと、たちどころに深い眠りに落ちる。君はあの時弱っていたから、きっと効き目が強く現れたんだろう」
へえ、そんな草があったのか。
「あれは本当だったら、馬が暴れて手がつけられない時に使うためのものだったんだけどね。まさかこんな形で役に立つとは思わなかったよ」
「そうなんですか…それじゃ、これから後で暴れると困っちゃうんじゃ…」
「心配ないさ。あいつらは精魂尽き果てて、今頃夢の中だろう」
「えっ?」
「…あの後、君が寝ているうちにと思って最高速で飛ばしてきたんだよ。ほんの一時間ほど前に、ここに着いたところだ」

窓を開けたジェイルさんの後ろから、外を眺め見る。大きな燭台の上で赤く揺らめく炎が、いくつも見えた。その明かりに照らされて、背後に人影を感じて振り向くと、そこに立っていたさっきの女の人が小さくお辞儀をしてきた。
「それでは、わたしはこれで…」
僕に聴こえるギリギリの声でそう言って、彼女は部屋を出ていった。

ようやく状況が飲み込めてきて、僕はもう一度ジェイルさんに頭を下げた。
「すみません…なんとお礼を言えばいいか」
そうすると、目を丸くしたジェイルさんから、予想外の答えが返ってきた。
「礼?何を言ってるんだ。君は僕の客だったんだ、礼を言うのはこっちの方だ…あと、これを」
いつの間に持っていたのか、僕のスケッチブックを差し出された。
「失礼ながら、勝手に中身を見てしまった。店をやっているって聞いていたけど、納得がいったよ。あの馬車の中でよくこれだけ描けるな、って思った」
「あ、ありがとうございます」
「明日にはお別れになるが、君はこの後も旅を続けるんだろう。ムオルに戻ってきたら、教えてくれないか。君の店に、一度行ってみたくなった」
今度は僕が目を丸くする番だった。嬉しい事はもちろん嬉しいんだけど、まさか落書きを見てそんなことを言ってくれるなんて。しばらくは会わないことになりそうだけど、そうするとささっと描いたものだけを覚えておいてもらうのは申し訳ない気がした。
だから、僕は新しい未来のお客さんに、こう訊いた。
「それなら…少しだけ、時間はありますか?」

「…はい、お待たせしました」
手渡したのは、一枚の紙。月明かりの下で静かに眠っている二頭の白馬と、優しい眼差しで馬たちの頭を撫でる御者の絵を描いた。もちろんモデルが誰であるかは言うまでもない。
「紙切れですみませんが、今の精一杯を込めたつもりです。よければ受け取ってもらえませんか」
「これは…」
そうつぶやいたきり、ジェイルさんはしばらく目線を紙の上に落としていた。そうして、おもむろに顔を上げてこう言ってくれた。
「とても嬉しいよ、ありがとう」
短いシンプルな言葉が、僕にはとても深く染み込んだ。
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