たびにっき - 2
店を開けてから三十分ほど経った頃だろうか。
ちょうど僕はアトリエでささっと描き上げた小さい絵を額に収めて、『100G』と値札を付けて棚の空いたスペースに置こうとしていたところだった。ささっと、とは言っても決して手抜きをしたわけじゃない。サイズは大きめのコースターくらいのものだけど、これでも真心は込めたつもりだ。まあ、ほんとにコースターとして使われたら、絵は見えなくなっちゃうか。
コトン、と小さく音を立てて、新しい売り物が並んだ…はずだったんだけど。それから何秒も経たないうちに、ものすごい突風が店の中を横切って、アトリエに消えていった。今立てかけた絵は無意識に手で押さえていたから事無きを得たけれど、その周りに同じように置いていた小物は全部吹き飛んでいった。
一瞬の出来事にぽかん、と口が開いたけど、少し遅れて部屋の温度が急に下がったことをやっと頭が理解したみたいで、お客さんが来たんだということがわかった。頭と肩が真っ白になった、分厚い茶色のコートに身を包んで、フードを深く被っている。ぱっと見た感じ、男の人か女の人か見分けがつかなかった。
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
とりあえず、お客さんであることは確かだから、僕は入口に駆け寄って、テーブルのそばにある椅子へとその人を案内した。
「いやあ、悪いね。吹雪をしのげる場所を探してたんだけど、営業中の看板が見えたものだから、入らせてもらったよ」
フードをめくり、コートを脱いだところで相手が男の人だということがやっとわかった。聞いたことのある声、ではない。どのくらいだろう、僕より年上なのは間違いなさそうだ。でもそんなにおじさんというわけでもないくらい。コートの下から、これも厚手のセーターが見える。うん、このぐらい着込んでいないとあの中を歩くのは厳しいだろうなあ。あまりじろじろ見るのは失礼かと思うけど、ちらっと見てもわかるほどに鼻の頭が赤くなっていた。こんな日に来てもらえたんだ、まずは寒さを忘れてもらおう。
「いえ、お気になさらず。こんな寒い中を、大変でしたね。何か温かいものをご用意しますので、少しお待ちください」

「いきなり押しかけて、こんなもてなしまでしてもらって。ありがとう、温まるよ」
「いえ、そんな。お口に合ったようでよかったです」
差し出したコーヒーを口に含んで、そう一言。嬉しい言葉をもらえた。
「なかなかいい豆を使っているね。君もコーヒーは好きなのかい?」
「はい。最近気に入っていて、毎朝飲んでいるんです」
そう答えると、男の人はそうかそうか、と満足気にうなずいた。
「いや、悲しいかな私の知り合いにはコーヒー好きがあまりいなくてね。君となら話が合いそうだと思ったんだよ」
「はは、そうかもしれないですね」
「ところで、ここは君の店?」
「はい、そうです。一応、僕の描いた絵を売っています」
「ここにある絵は、全部君が描いたもの?」
「そうですね、つい最近のものから、いつのか忘れてしまったものまで、いろいろありますけど…」
「…ずいぶんいろんな絵があるみたいだね。ずっとここにいたわけじゃないらしい」
「あっ、そうなんですよ。実は一年ほど前まで…」

普通は、初対面のお客さん相手にこんなに会話をすることはない。だけどこの人には、不思議とこういう話をしてもいいのかなと思えた。気がつくと、僕は色々な思い出をその人に話していた。
仲間のこと、先生のこと、世界のこと、そして自分のこと、語るに尽きないエピソード。文字を綴るのはあまり得意じゃない僕でも、まとめれば一冊の本にできそうなくらいの量はあったんじゃないだろうか。

「…すみません、自分のことばかり話してしまって。つまらなかったですよね」
「いやいや、面白い話だったよ。それはさぞ濃密な一年だったんだろうね。とても貴重な経験だ」
「はい。後にも先にも、あれだけ濃い一年というのはないような気がします」
気がする、なんて言ったけど、ほぼ確信していた。僕の人生がこれから先どのくらい続くかは分からないけど、一年単位で見ればきっとルプガナで過ごしたあの年がピークに違いない、って。
だけど、僕の前に座っているその人は、少しだけ目を細めて。
「君はもう、それで満足したのかい?」
そんなことを口にした。
「えっ?」
「いや、意地の悪い訊き方をしたかな。その一年で、君はやりたいことを全てやったのかと思ってね」
視線が、僕を見ているようで見ていなかった。僕の顔を突き抜けてその向こう、遥か先にあるものを見つめているような。
満足、という意味で言えば、そうかもしれない。みんなと別れたあの瞬間、僕は確かに満たされていた…けれど。
「いや…全部は。むしろ、あの一年を経験したおかげで、またやりたいことができたんです。お店を開いたり、いろいろ…」
あれ、いろいろ…なんだっけ。喉の奥に引っかかって、出てこない。
「そうか、君は今もやりたいことを続けているわけだ。それは羨ましいな」
ふっ、と口元が緩んだ。どこか寂しげな笑みだった。
「あなたは、何かやりたいことがあったりするんですか?」
「いや、私はどうだろうね。今は気ままに旅をしているだけかもしれない。ただ、気がついたときにはできなくなっていることもたくさんあってね。現にそういう人を見ているし、自分もその例に漏れないんだろうな、とは分かる…というだけの話さ」
その言葉までずっと、黒い瞳の向く先は遠くにあった。次の一度の瞬きの後、僕とぴったり目が合って。
「そういうわけで、私も自分が何をしたいのかを探しているところなんだよ。吹雪の中で歩いていたのも、そうしたかったからしていたことだ。傍目には酔狂に映るかもしれないが、自分にとって大切だと思える何かが見つかればそれでいい」
それから、消え入りそうな声で、「もっとも、見つけるまでが、大変かもしれないがね」とこぼした。


その後も取り留めのない話をいろいろと続けて、二時間くらいだろうか、お昼が近くなってきた頃に男の人が立ち上がった。「初めは何も買う予定はなかったけど、美味しいコーヒーももらったし、長話に付き合ってもくれたし」ということで、今朝仕上げたばかりの絵を買ってくれた。最初はコーヒー代も一緒に、と倍額を渡されたんだけど、ここは喫茶店じゃないですし、僕も長々とお話を聞いてもらったので、ということできっちり絵のお代だけをいただいた。
うすうす感じてはいたけれど、扉を開けるともう視界は真っ白、外の様子がもう少しおさまるまでは、と引き止めたんだけど、どうもこの猛吹雪は今日中どころか、向こう一週間ぐらいはずっと続くだろうとのことらしい。待つだけ無駄みたいだ。
「お気をつけて。またいつでもいらして下さい」
「ああ、そうだ。伝え忘れていたことが」
「?」
フードを深くかぶり直しながら、その人は背中越しに言った。
「ひとつ、見つかったよ」
たったそれだけの、主語も目的語もない言葉だったけれど。
僕には、伝わった。思わず顔がほころぶ。
「それでは、また。この素敵なお店が賑わうことを祈っているよ」
そう言い残して、彼は小包を懐に抱えて行ってしまった。
「ありがとうございました!」
その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、僕は店の中に戻る。空っぽのコーヒーカップを持ち上げたとき、ちらっと、その向こうにある椅子を目がとらえた。いくら室内だとは言っても、無骨な木の椅子は、真冬には少し冷たかったかもしれない。

…早いうちに、暖炉の傍にソファを置くことにしよう。


元通り、誰もいない静けさが帰ってきた。
さっきの突風で全滅した小隊をまだ救助していなかったことに気付いて、僕は棚の裏に屈みこんだ。…うん、どれも壊れているところはないみたいだ。元の通りに棚の上に置き直して、数が合っているかを確かめる。

1、2、3、4、5、6…7。

七人の小人みたいに、並んだ七枚の絵が僕を見返す。そこで、思い出した。喉の奥に引っかかっていた骨が、すっと取れた。ああ、僕は忘れていたんだ。アトリエに閉じこもったあのとき、それまでの全てを解き放って、形に残して、大きな物語を完結させていたつもりになっていた。書きかけの本に、勝手に後書きをつけていたんだ。
終わりのないストーリーだってある。いや、きっとその方がずっと多いんだ。
やりたいことが、まだあった!そうしてそれを思い出すと、居ても立ってもいられなかった。
「…よし」
言い聞かせるように小さくつぶやいて、僕は席を立った。
それから小一時間、僕はキャンバスに向かい続けた。ちょっと派手な、長期のお休みをお知らせする看板を作るために。

その看板が出来上がるまで、お客さんは一人も来なかった。
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