たびにっき - 1

暗い部屋に降りてくると、時計の音だけが、フロアに響いていた。
冬の夜明け前というのは、どうしてこうも静かなんだろう。太陽はまだまだ姿を見せそうにないけれど、暗闇に包まれた外は目覚めの光を今か今かと待っているように見える。もう少し、短針がのんびりと旅をするのを待たないといけないみたいだ。

――こんな感じで一日のスタートを迎えるのが、最近の僕の日常だ。

ランプに明かりを灯して、暖炉に薪をくべて火をつける。それでも、部屋の中は窓の外ほどとはいかずとも冷気に包まれている。部屋が明るくなったことで、ずらりと並んだ額縁が目に入ってくる。…うん、特に変わった様子はないな。こんなところを荒らす人がいるとは思えないけど。
もう少し寝ていたいと、まどろむまぶたを少しばかり擦って、僕は目覚めの一杯をこしらえに台所に立った。
それにしても、冷えるなぁ。暖かい布団に包まれて、気持ちよく眠っているときはいいんだけれど、こうして起きだしてくると厚手のパジャマを着ていても寒さで身体が震える。手近にあった上着を一枚羽織って、僕は「あれ」の完成を待った。
最近のお気に入りはサマンオサ産の豆を使ったコーヒーだ。苦味と少しの酸味がちょうどよくて癖になる、香りも好きな一杯が出来上がる。カップに注ぐ瞬間に立ち昇る香り。これがたまらなくいいんだよね、ほんと。
椅子に腰掛けて、湯気の立つコーヒーカップを持ち上げた。買って一年ほどの愛用品は、まだまだ年季が入っているとは言えない。でも、これからも長い付き合いをしていくことになるんだろう。口に含むと、期待通りの味が舌に伝わってくる。しばらくその味を楽しんでから飲み込むと、これもまた待っていた香りが鼻へと抜ける。僕の毎日はここから始まるんだ。はぁー、と吐いた息が、白く昇って消えていった。

僕の店があるムオルは、冬の寒さが結構厳しいところだ。いつか聞いた話だと町のすぐ北側の海には強い寒流が流れ込んでいるみたいで、雪に降られることはしょっちゅう。今日もどうやら雪模様で、窓の外からはいかにも冷たそうな風の音が聞こえてくる。海が近いせいか風も多い気候だから、雪が降るとなると結構な確率で吹雪になるんだよね。そのせいで、冬は客足がとんと遠のいてしまう。まあ、これはどの店も同じみたいだし、それを抜きにしてもこんな荒れた天気の中で名の知れたわけでもない絵を買いに来る人なんていないわけで。少なくとも僕だったら、こんな日は家でおとなしく寝てるだろうし。
窓の外にぼんやりと目を向ける。あー、これはダメみたいだ。ガラス一枚隔てた向こうで好き勝手に暴れ回る白い粒たちを見て、僕はため息をついた。今日はもしかしたら、一人も来ずに日が沈むかも。もう少しおとなしい冬であってくれたらなぁ、とつぶやく。地図だけで見ればロマリアよりも南にあるんだけど、ひょっとしたらノアニールより寒いんじゃないかな。同じ海沿いなのに、ここよりも少し暖かいルプガナが恋しくなってきた。

一年前に教習所を卒業して、僕はひとまずムオルに戻ってきた。いろいろとやりたいことができたわけだけど、そのひとつが、こうして自分の描く絵のお店を持つこと。といっても、絵で食べていこうとか、そういうことはまるで考えていなくて。教習所での生活の中で、僕の描いた絵を多くの人に見てもらえたらな、って思えるようになったのがきっかけだ。
戻ってきて最初の数週間ぐらい、僕は自分でも怖いくらいに、アトリエに閉じこもってひたすらに絵を描き散らかした。仲間たちと過ごした一年間の出来事が次から次へと頭に浮かんできて、筆が止まらなかったんだ。気が付けば足の踏み場に困っていたっけ。
今、お店に売り物として並べているのは、半分ほどがそのときに描いたもの。あとは、スケッチしてあったものを描き写したり、それより後のものだったり。ルプガナに行くより前に描いたものもほんの少し混ぜて出してみている。そうすると、やっぱり分かる人には分かるみたいなんだよね。ほとんどの人には気づかれないけど、ほんの一部のお客さんは鋭くて。昨日だったか一昨日だったか、久しぶりにこっちに帰ってきたっていう昔なじみのおじさんにはすぐにバレたんだ。
「アリュード、この絵は昔に描いたもんだろう?」
って。僕自身は、特にどこを変えた、って意識はしてないんだけど、あれだけいろいろな経験をすると、自然と変わってしまうらしい。単純に僕が歳をとったから、ってだけかもしれないけど、それだけが原因だとは考えにくいし。
ともあれ、この変化はプラスになっているみたいで、「良くなった」って感じのコメントをもらえることが多くなった。それは絵描きとしては嬉しいことで。教習所にいたことが、こんな形でも役に立つなんて思っていなかったからなおさらだ。

そんなことを考えていたら、懐かしさが込み上げてきた。カップを置いて、引き出しを開けてみる。ここには教習所の仲間や先生たちから送られてくる手紙だとか、そういうものが入っている。あんまり褒められた話じゃないけど、お店が暇なときはたまにここを開けて、中を読んだりしている。僕を変えてくれた一年間の、大切な思い出たちだ。連絡がとれない人もいたし、それなりにやりとりをする相手もいたけど、みんなと別れてから一年近くが経っても、こうやって文通が続くとは思っていなかったから、これも嬉しいことだな、なんて思ったりする。

教習所に行って、初めてみんなと顔を合わせたあの日。僕は、不安でたまらなかった。
ちらっと眺めてみれば、ほとんど自分と歳が変わらないのに、みんなすごく強そうで。この人たちと、僕はまともに会話ができるんだろうか。というか、そもそも訓練についていけるんだろうか。初日の寝床では、気が気じゃなかったなぁ。
なにせ、僕には取り柄と呼べるものがなかったんだ。
「また絵を描いてるのか、坊主は」
向こうに行く前は、そんなことばかり言われてたっけ。好きこそ物の、なんて言葉があるけれど、僕は取り立てて絵が上手いわけじゃなかった。同じぐらいの歳の子で、僕以上に上手な絵を描く子供は、きっと顔を知っていた子だけでも両手で足りないほどいただろう。
じゃあ剣がうまかったかと聞かれると、それもなくて。器用さにはそこそこ自信があったけど、それだけで上手くなれたら剣の道に苦労はないはずで。どうして教習生として僕に声がかかったのか、今考えてみてもまるでわからない。ラルドさんたちに聞いたことがあったけど、誰も教えてくれなかった。まさか両手で剣を使えたから、なんてこともないだろう。あの人はただ、「剣の腕が立つだとか、人間離れした何かを持っているだとか。そういう基準で選ぶなら、新しい教習所など必要ない」とだけ言っていた。
でも、僕はどうにかやり通せた。手の届かないと思っていた仲間たちが、僕を支えてくれた。隅の棚に立てかけた二本の剣が、ランプの灯りを反射してオレンジ色に光っている。卒業証書なんてものは無かったけれど、この剣が十分すぎるほどその代わりになってくれる。あの教習所のメンバーの一員でいられたことは、間違いなく僕が誇れることだった。

そうやって、頭の引き出しからも思い出を取り出していると、暗闇の中の時計の旅も終わりに近づいていたようで、外がうっすらと明るくなり始めていた。一体どれだけここに座っていたのか。いけないいけない、開店の準備をしなくちゃ。思いにふける前に、手紙たちを片付けていてよかった。頭のほうの引き出しは、整理するのが簡単だ。大掃除をしようと思うと、きっと現実より大変なんだろうけど。
手早く着替えを済ませて、入口のドアの手前に置いてある立て看板を外に出すため扉を開ける。ゴォー…という低めの風の音が、すぐに耳に届いた。思った通り、日が出始めて間もないころだ、外は凍えるような寒さだった。ほんの数分で、すっかり両手がかじかんでしまう。丸めた手の間に息を吹きかけながら、僕は店の中に戻る。吹雪も手伝ってることだし、今日も忙しい一日にはならなさそうだ。そう思っていたんだけど…。
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