ウィークエンドに紅茶はいかが?
うとうとするにはぴったりな、雨降る日曜の午後三時。形ばかり開いた分厚い本を枕に、窓の外を伝う水滴の模様をぼんやり眺めていたレッドは、甘い匂いが鼻腔をくすぐったのを感じて、閉じかけていた瞼を開いた。湿気で僅かに重くなった上半身を緩慢に起こすと、誰かが部屋に入ってくるのが視界に入る。菓子が焼ける香ばしい香りを身に纏わせた誰かは、呆れたような顔をした幼馴染だった。
「お前、まだ寝てたのか」
窓際で座るレッドを見下ろした幼馴染は、レッドの顔よりも大きい木製のお盆を持っていた。お盆の上から香る匂いに気を取られながら、気怠い声で返事をする。
「寝てないよ。ぼんやりしてただけ」
「一緒だろ」
眠そうな声してるからばればれだ、ばか。
小さな笑い声が金平糖みたくきらきら降ってきて、その眩しさに目がくらんだ。瞬きしている間に、幼馴染はくすくす笑ってテーブルの方へと行ってしまう。ついでにいい匂いも徐々に離れていくから何だか名残惜しくて、甘い香りに引きずられるように、レッドはゆっくりと立ち上がった。
「待って」
急に立ち上がったせいで眩む目元を指で揉みながら、呼び止める。ぼやける視界で、幼馴染は悪戯をしかけた子供みたいに、ちょっと得意気に口角を上げた。
「お、起きたか?」
「だから寝てないってば」
「うそつき」
上目遣いでこちらを見る幼馴染ににべもなくそう言われる。これ以上否定したところでまた同じ会話の繰り返しになるのは今までの経験上分かっていたから、仕方なく話題を切り替えることにした。
「……ね、それなあに?」
猫撫で声を出しながら、幼馴染の背後に隠れているいい匂いの『何か』を指差してみせる。すると幼馴染は唇の前で人差し指を立て、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。そうして一言。
「勝負しようぜ」
挑発的な笑顔を見ると、今日が雨だとか寝起きでだるかったとか、ぜんぶぜんぶ忘れてしまう。レッドは肌がジリジリと焦がれるような空気を感じながら、知らず知らずのうちに笑っていた。久しく感じることのなかった、バトルを挑まれた時のような興奮が、レッドの中に少しだけ湧き出たのだ。外に出ることが叶わない日でも、この幼馴染といれば刺激に飢えることがなくていい。
「いいよ。何の勝負?」
「お前、鼻がきくだろ? テーブルの上のものが何か、当てられたら食べてもいいぞ。どうだ、やるか?」
「上等」
短く答えて目を閉じた。嗅覚以外の感覚を塞ぎ、全神経を匂いに集中させる。
これはなんだろう? どこか懐かしい匂いがする。こんがりと甘くて、でも甘すぎることはない。中はふわふわしているのに外側はちょっとかりかりして、レッドはそこが一番好きだった。そう、好きだったのだ。
(そうだ、これ、昔、よく食べた……)
「わかった」
「お? 早いな」
試すようにレッドを見る幼馴染の視線は、なぜだか少し嬉しそうだ。きっと幼馴染も、レッドと同じことを思い出しながらこれを作ったに違いない。だから答えを聞く声は妙に楽しげで、それがレッドに確信を与えた。
「さあレッド、答えは?」
笑う幼馴染の姿が思い出の中のそれと重なる。あの日もちょうどこんな風に雨が降っていて、たしか今日と同じ、日曜日だった。今でもはっきりと覚えている。それは、忘れてしまうにはあまりにも印象的すぎる名前だった。
「ウィークエンド。ナナミさんの得意なケーキで、グリーンが初めて作ってくれたお菓子だよね」
6年前、まだレッドとグリーンが8歳の時、雨の中で取っ組み合いの喧嘩をしたことがあった。手が出るのはいつものことだったけれど、その日は止めに入った姉の声すらまったく聞こえないくらい、本気の喧嘩をしていた。まるで世界にはお互いしかいないみたいに、二人でずっと殴り合って、獣のように荒い呼吸のまま泥の中に溺れていたのを、レッドは昨日のことのように覚えている。
そんなレッドとグリーンの二人を見たグリーンの姉のナナミは、猛獣に等しい子ども達に言葉など届かないことを早々に理解して、自分一人で家の中に戻り、二時間ほどしてから二人を呼びに再度、外へ出てきた。
その手に、焼きたてのケーキを持って。
雨の中で動き回っていたせいか体力の消耗が大きく、しかし怒りで空腹を忘れていた二人は、ケーキを見て正気に戻った瞬間、一気に襲ってきた空腹感にぶっ倒れた。それを見てナナミがくすりと笑いを漏らし、レッドも何だか笑えてきて、小さく笑った。グリーンもそんなレッドとナナミを見てくちびるを緩め、最後には三人とも大爆笑。そしてそのまま、レッドとグリーンは仲直りをした。
結局、何が原因であんな大喧嘩になったのか、レッドもグリーンももう覚えていない。でもあの大喧嘩の後で食べたウィークエンドの美味しさは、鮮明に覚えている。泥にまみれた口の中に広がる甘い味、空っぽのお腹が膨れる感覚、それを食べて微笑むグリーンの姿。どれも忘れられるはずがなかった。
だからしばらくはずっと、グリーンと二人してあの味に焦がれたものだ。しかしナナミはそうしょっちゅうケーキを焼いてくれる訳ではなく、あの頃のレッドとグリーンは、ウィークエンドが食べたいとよく駄々をこねていたものだ。
レッドがあまりにも食べたがっていたからか、単に好きなんだろうと思ったからかはわからないが、グリーンはナナミに作り方を教わり、その年のレッドの誕生日にウィークエンドを焼いてくれた。グリーンの作ったウィークエンドは初めてにしてはうまく焼けており、折角作ってくれたのだから大事に食べよう、なんて思っていたにも関わらず、あっという間に平らげてしまった。正直に言うと、あの雨の日に食べたものより美味しく感じて、食指が止まらなかったのだ。
しかし、その食べっぷりを見たグリーンが「お前がっつきすぎ」なんて笑うから、少しイラっとして、レッドは小さな意地悪をしてしまった。
「美味しかったよ、ナナミさんのには敵わなかったけど」
当然グリーンは怒った。
そして口喧嘩が始まり、口論が加熱して取っ組み合いになったところでナナミに諫められるというお決まりのパターンに落ち着いた。結局、すごく美味しかったよとは告げられなくて、誕生日だと言うのに言葉一つ渡せない、レッドにとってはわだかまりの残る日となった。それも今となってはいい思い出だ。
レッドの解答に、グリーンは懐かしげに目を細めながら、はちんと指を鳴らした。
「ご名答。懐かしいだろ?」
「うん」
「こちらへどうぞ。レッド様」
執事のように、腕を曲げ腰を折るグリーンは、ごっこ遊びでもしているみたいに、恭しくレッドに椅子を勧めた。
「本日のおやつは、粉砂糖とレモン果汁を混ぜたグラスをケーキの表面にたっぷりと塗って、アプリコットジャムを添えた、ウィークエンドとなっております」
「いつもの、ピスタチオを乗っけたやつじゃないんだね」
椅子に腰掛けながら聞くと、グリーンはにこにこしながら返事をする。
「レッドの肥えた舌を満足させるには趣向を変えなきゃダメかなと思ってさ」
「……? 僕、別に舌は肥えてないけど」
「いいから食えよ。お前のために作ったんだから」
視線だけで「食え」と促される。レッドを椅子に座らせたグリーンは、自身が席につく気はないらしく、椅子の真横で仁王立ちして、まじまじとこちらを見下ろしてきた。その顔に表情はない。
そんなグリーンの様子を不審に思いはしたけれど、毒が入ってるはずもないし、まあとりあえず食べてみよう、とレッドはフォークへ手を伸ばした。切り分けて小皿に盛り付けられたウィークエンドに、神妙な面持ちでフォークを沈める。その間もグリーンは仁王立ちのままじっとして何も言わなかった。
手のひら大の長方形をフォークで一口サイズに切りわけて、口へと運ぶ。優しい甘味とフルーティな香りが口の中にふわりと広がった。甘すぎず、かと言って味がぼやけているわけでもない、お店のそれにも遜色ない出来栄えだ。プロの味、と言うのとはまた違って、ちゃんとナナミのウィークエンドの名残もある。負けず嫌いと完璧主義が合わさった、グリーンらしいウィークエンドだ。
(ここまでくるのにどれだけ練習したんだか)
夜中に一人でケーキ作りに奮闘するグリーンの姿が脳内にありありと浮かんで、何だか可笑しくなってしまった。何気なく放った自分の一言が、今日と言うこの日まで、彼を突き動かしてきたなんて。そう思うと、レッドの頬は自然と緩んだ。
「美味しい」
くちびるからこぼれ落ちたのは、あの日、結局伝えられなかった本心。それを聞いて、グリーンは満足気な表情を浮かべ、レッドを見た。
「姉ちゃんのよりも?」
「は?」
「だーかーらー! 姉ちゃんが作ったのよりも美味かった? って聞いてんの」
どうやらあの時の「美味しかったよ、ナナミさんのには敵わなかったけど」と言う意地悪は、グリーンの中でははまだ、思い出になっていなかったようだ。口も目も弧を描いてはいるものの、投げられた問いはどこか刺々しくレッドに突き刺さる。
「……意外と根に持つよね」
「何か言ったか?」
小さな声で呟いた陰口は地獄耳のグリーンにきちんと聞こえていたらしい。即座に鋭い尋問が飛んでくる。
「いや、グリーンの焼いたウィークエンド、美味しいなあと思って」
咄嗟に思いついた言い訳はかなり苦しいものだった。けれどグリーンはあっさりと信じたらしく、見る見るうちにご機嫌になる。ちょろい、とうっかり呟きそうになるのを慌てて飲み込んで、ご機嫌取りなどではない、心からの賛辞を述べた。
「ほんとに美味しいよ。レモンも入ってる?」
「そう。お前ってほんと鼻と舌だけはいいのなー!」
「でしょ」
いつもは素直じゃないグリーンに珍しく褒められて、レッドは少しだけ得意になる。鼻と舌『だけ』と言うのが何だか引っかかるが、まあいいだろう。あのグリーンが自分を褒めてくれる機会なんて滅多にないんだから、今はそれだけで。
「ね、グリーン」
今だ椅子の隣で立ち続けているグリーンの腕を軽く引いて言う。
「あの時さ」
「いつだよ」
「昔、誕生日にケーキ作ってくれたとき」
「ああ、うん」
「ほんとは、ナナミさんのより美味しかったよって言おうとしてたんだ」
「は!?」
「でもグリーンががっつきすぎだとか言ってげらげら笑うから、イラっときて、あんなこと言った」
「あ、れは!」
困惑顔で話を聞いていたグリーンが、急に腕を掴んでいたレッドの手を振りほどいて叫んだ。今度はレッドが困惑顔になる番だ。俯いてしまったグリーンの手を握って、顔を覗き込みながら訊く。
「どした?」
「……ゃ、…て」
「ごめん、何? 聞こえない」
「……めちゃくちゃ、恥ずかしかったんだよ!」
「え」
「男なのに誕生日ケーキ作るとかどうなんだこれ!? とか、不味いって言われたらどうしよう? とか、色々思って、やっぱ渡すのやめようって思ってた。けど、姉ちゃんが、折角作ったんだからって……」
言葉と共にじりじりと後ろに下がっていくグリーンを、さっき捕まえた手で引き留める。絡めた指に力を込めると、細い肩がびくりと揺れた。
「なに? 照れ隠しで僕のこと笑ったの?」
大声で笑い出したいなのを必至で堪えてレッドは言った。堪えきれずに思いっきり顔が緩んでいるが、グリーンは俯いて見ていないので、まあよしとする。
しばらくは沈黙が流れた。喧しいグリーンと共にいると静けさとは無縁になるから、沈黙なんてものも久しぶりだった。レッドには、こういう非常事態、例えばいつもは五月蝿い幼馴染との間に慣れない沈黙が流れるとか、そういうことにうまく対応できる器用さはない。だから、黙りこくった幼馴染が再び話し始めるのを、ただぼんやりと待っていた。
しかし幼馴染があまりにも口を割らないので、仕方なくレッドは自分から口を開く。
「あのさ、結局あの日、僕もグリーンも素直じゃなかったってことでいい?」
「……いい」
目の前のレッドではなく真下の床を見つめているらしいグリーンから、低い声で返答がある。やっと喋った、とレッドが笑うと、うるせえ、とようやく幼馴染が顔を上げた。そこを狙って掴んだ手を引き寄せ、身体が傾いだところで、レッドは素直じゃない恋人のくちびるを奪った。
「っ、」
慌てたように閉じる口をこじ開けて、五月蝿い口が騒ぎ出す前に舌でねじ伏せる。息を奪った途端大人しくなるグリーンを、ああやっぱりかわいいなあと思うが、それだけだ。上手に優しくすることはレッドには難しくて、いつものようにグリーンから奪うばかりの荒々しいキスをした。くちびるが離れた頃にはすっかりグリーンの息は上がっていて、咎めるような視線が真っ正面からレッドに刺さった。
「……っにすんだよ!」
「なにって、キスだよ」
「そういうことじゃねえよ! 何で! このタイミングで! するんだって話だよ!」
さっきまでの沈黙は一体なんだったのか、普段のきゃんきゃん騒がしい幼馴染が戻ってくる。そうそうこうでなくっちゃ、と緩んだ頬を目ざとく見つけた幼馴染が、何笑ってんだお前! と喚くのを聞きながら、レッドはグリーンに訊いた。
「美味しかった?」
「は?」
「キス。グリーンのウィークエンドの味、したでしょ」
レッドの問いに、みるみるうちにグリーンの顔が赤くなっていく。にやにやしながらグリーンの反応を窺っていたレッドは、彼から返ってきた予想外の返事に堪えていた笑いをぶちまけてしまった。
ああほんとに、グリーンといると雨の日だって退屈しない。
笑いすぎだろバカレッド!とグリーンが怒るのを流し聞きしながら、窓の外を見る。何時の間にやら雨は止んでいて、空はこの上なく澄み渡った青に満ちていた。
ウィークエンドに紅茶はいかが?
「俺が作ったんだから、上手いに決まってんだろ!」
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はい!
そんな訳で1000hitリクエストの赤緑、です。
……遅くなってすいませんでしたあああああ!orz
もうね……なんと言うか、時間の割に出来が散々と言うかね….(遠い目) 長い上うざいと言う読者を拒む仕様になっておりますごめんなさい。
赤緑か黒緑というリクエストをいただいて、正直迷ったんですが、まともな赤緑書いてないなあ……と思って赤緑を書かせていただきました!
誰おまで申し訳ないです。拍手でいってくだされば即座に書き直すので、気に入らなければ言ってくださいね!
藤さんのサイト縮小告知見て、早いところ書き上げねば!と思ったのですが、結局こんな日付に……orz 申し訳ない限りです。長らくお待たせしてほんとにすいませんでした!(>_<)
最後になりましたが、藤さん、リクエスト本当にありがとうございましたーっ!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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