1 | ナノ
朝からうっすらと気になっていた違和感が、時間が経つにつれて明確化してきた。
次の授業は移動教室なのでクラスの奴等は早々にホームルームから出ていく。
がやがやと騒がしい周囲に反してオレは、ゆっくりと教科書を探すふりをしながら徐々に増してく不快な感覚をどうにか誤魔化せないかなー、と考える。

(…あー、くそ、いってぇ)

チクチクと内側から針で突っつかれるような痛みが、じくじくと胃の中で響く。
何日か前から、似たような症状はあった。
例えば寝る前とか、部活後なんかに痛むことがあったけど、どれも気にしないふりをしているうちにすぐ収まっていた。だから今日の朝だって、なんとなくやり過ごしていればすぐに治るだろうと思っていたんだけど。
結局2限が終わった今でも痛みは続いていて、しかもだんだん悪化しているときた。こんなにひどくなるとは思っていなかったもんだから内心焦る。

(なんだっつーのよ、ほんと、)

心の中で舌打ちした。
正直かなりキてる。いてーんだよ、これ、絶対歩いたら響くもん。そしたら胃にダイレクトに振動来ちゃうじゃん、動いてなくたって痛いのに、それ相当しんどいって。今オレどこも悪くありませんよ?教科書はあったけど、あれ、今度はノート見つかんねぇや、どこやったけぇ?ってとぼけた顔をして声を出して、待っててくれているお優しい、けれど今はいらねー優しさをくれる友人達にわりぃけど先に行っててーって笑えてるけど、実は全然余裕なくなってきてるんです。そうそう、「んだよ、早く来いよなー」「あの先生出席きびしーんだからさ」「最悪ノート貸してやんよ」「お前のノート、字ィ汚すぎて読めねぇから!」ってオレ並にやかましい笑い声をあげながら出ていってくれてありがとう。その声が腹に響いてちょっとイラッときたわ。理不尽でごめんね!でもまじで辛いんだ。ああ、でもオレの笑い声もあんなふうってんなら、誰かの腹に響いちゃってたこともあるのかな、それは申し訳ないわ、なんて、もう、あれだ、笑顔貼り付けてんのも辛くなってきたから、だからさ、早く

「真ちゃんも、先行ってていーぜ」

振り向きもしないでオレは話しかけた。
教室に今だ残る最後のひとり。
さっきからずっとオレの後ろの席で動かないでいる男に促す。

「あ、オレ、ノート借りるなら真ちゃんのが良いな。
字きれーだし、分かりやすいしさ、前のテストの時もすげー助かったんだよね」

もう正直喋るのしんどいんだけど、言わずにはいられない。なるべくなんでもないように、誤魔化したい。

「ちょっとまじでオレ遅刻かもだし、もうチャイム鳴るよ。
あの先生厳しいんだから、真ちゃんの成績、オレの性で下げるなんてやーよ?」

こいつだけには、知られたくないのに。なんで待ってんのオレのことなんか。最後まで残ってくれちゃって、嬉しいけどさ、嬉しいけど、それ今じゃ無いほうがもっと良いなーなんてワガママ?

「ほら、オレ遅れても真ちゃんが授業ちゃんと聞いてくれたらオレ困んないし、ね、だから」
「高尾」

急に名前を呼ばれて、その静かな呼び声に圧倒されて、思わず黙ってしまった。
背後の気配が動いて、立ち上がった影がオレに被る。
斜め後ろから触れられた肩は、跳ねる元気もない。

「行くぞ、立てるか?」

言われた言葉の意味が分からなくて、真ちゃんを見上げて、どこに?と訊ねた。

「保健室に決まってるだろう」

何を言ってるんだお前は、なんて言いたげな口調と呆れた視線、有無を言わせぬよう肩におかれた左手。
なんだ、オレの体調不良、バレバレかよ。

ここまで来たら言い訳は無用だし、逆らったら真ちゃんの機嫌損ねちゃうし、ていうか、ぶっちゃけもう誤魔化さなくていいことに助かったって気持ちも多少ある。やっぱり収まらない痛みに、オレはとうとう笑顔を張り付けるのを止めて、あからさまに顔を歪めた。
ゆっくりと、腹部を気遣うように立ち上がってはみたものの、想像してた通りに痛みが走る。もう一度イスに崩れたくなった。が、一応オレだって男のプライドがあるのでなんとかふんばって真ちゃんの手は借りずに保健室に向かった。

うそ、ちょっと腕つかませてもらっちゃったけどな。体重も結構傾けてしまったかもしれない。
それでも真ちゃんは迷惑そうな顔ひとつしないで、なんにも言わずに保健室まで連れていってくれた。



(女だったら、お姫様だっこ〜とかお願い出来たんかな)

痛みから意識を逸らしたくて、そんな下らないことを想像してみる。
ぐるりと厚手のカーテンに四方を囲まれたこの空間は淡々と白く、世の中から急にひどく遠いところに連れて来られたような、閉じ込められたような心許ない気持ちになる。
ベッドは固くて、誰のものでもない無機質な匂いは少し居心地が悪い。
オレたぶん、そんなに保健室って好きじゃないかも。
それでも横になっているだけずいぶんマシだった。

ガラッとドアを開けて閉める音に続いて、人一人分の足音がこっちに近付いてくる。

「保険の先生に伝えてきた。これから会議があるそうだから様子は見に来れないが、良くなるまで休んでいるようにと言っていたのだよ。
具合は、少しは楽になったか」

職員室から帰ってきた真ちゃんがカーテンを捲って顔を覗かせた。
たったそれだけでオレは心底ほっとする。白い世界に鮮やかな緑色。

「うん、マシになったー」

わりぃね、と笑いかけると、真ちゃんの表情が少し和らいだ。

「なぁに真ちゃん、そんなにオレのこと心配してくれてたわけ?」
「うるさい、病人は黙っていろ」
「体調悪いのばれちゃってたし、なんなの真ちゃん、オレのこと何でもお見通しみたいな?」

横になっているおかげなのか、もう隠す必要がなくなったからなのか。
分からないけど、普段通りに冗談を言えるくらいには余裕が出てきた。

「馬鹿め、体調管理の不届きなんぞでオレにパスを出す相手がいなくてはどうにもならんからだ。
あらゆることに人事を尽くさんでどうする。
何でもとは思わんが、半年もほぼ毎日接していれば、お前が無理をしているかしてないかくらいは察しがつくのだよ」
「……真ちゃん、さらっと大真面目にデレるのやめて心臓持たない…」
「…くだらんこと言うな、大体、お前が思っているほどお前は器用ではないのだよ」
「えー、なんだよそれ?」
「今朝はやけに、いつも以上にやかましかったのだよ」

いや実際みんな気がついてなかったっしょ?オレ器用でしょ?真ちゃんがオレのことよく見てくれてたからなんじゃないの?なんて。まぁでも、オレの身体のことに気がついてくれたのが他の誰でもなく真ちゃんだったのが、悔しいけどすげぇ嬉しいんだよ、とはさすがに恥ずかしいから言わないでおく。

オレは真ちゃんが尽くすべき人事の対象なんだな。やばい、にやけそう。

ぎしっとベッドのスプリングが軋む。
ベッドの縁に腰かけた真ちゃんを見て、オレは慌てて半身を起こした。

「ちょ、なにゆっくり座っちゃってんの!
そばに居てくれるっていうんだったらそりゃ嬉しいけど、でも授業とっくに始まっちゃってるんだから無理しなくて良いって。
オレは寝てれば大丈夫だし、これ以上真ちゃんに迷惑かけらんねぇ」
「ここまで来たらもう出ても出なくても変わらないのだよ」

どうせうるさいあの先生のことだ、今更行ったところでねちねちと小言を言われるだけだろう、と言う真ちゃんを、オレはまじまじと見つめる。
いつどんなときも手を抜かず、あらゆることに全力を尽くすことが生き甲斐のようなこの男が授業をサボるなんてことがあるのかと。

「…超レアじゃん、台風来るんじゃねーの」
「お前な…それに、お前に聞きたいことがある」
「ん?なぁに?」
「体調不良の原因はなんだ」

ひっと、喉の奥で空気が鳴った。
……ああ、やっぱり聞かれてしまうのか。
脱力して、そのまま再びベッドに身体を沈める。
そうだ、何事にも手を抜かない真ちゃんだ。それがバスケに関わる事なら尚更。そのバスケで繋がっている真ちゃんとオレ。最善を尽くさなきゃいけないのは当然オレもだ。
オレが何を怠ったのか、答えによっては説教ものということだろう。
本当ならクラスメイト達には誤魔化す必要なんてなかった。でも回りも巻き込まなければ真ちゃんの目を誤魔化せない。だから必死だったというのに。
これが嫌だから、オレは真ちゃんにバレたくなかった。

言いたくない、けれど言わなければ真ちゃんは何一つ納得しない。下手な嘘なら見破られるだろう。例えもしバレなかったとしても、それは真ちゃんに対する裏切り行為だ。
自分だけじゃなく、オレにも人事を尽くすことを強いるのは、ただ“勝ちたい”からだ。勝利を渇望するからだ。それはオレだっておんなじだ。
ならばオレも尽くさなくちゃいけない。勝つために。
オレのちっぽけなプライドのために真ちゃんを裏切るなんて、あり得ない。
ふぅ、と一息ついて覚悟を決めた。

「ぜってー笑うなよ?呆れんなよ?
……なんつーか、プレッシャー負けってやつ?」

それでも口に出してしまうと恥ずかしくて情けなくて、枕に顔を埋めるはめになった。真ちゃんの顔を見るのが怖かった。

「もうすぐ洛山との試合だろ、それのこと考えるとダメっぽい」

(キセキの奴等の試合を見て、試合をして、化け物みたいな奴等ばっかりで、その才能とか身体能力が羨ましくて悔しくて憎らしくて焦がれて、かつて同胞だった真ちゃんが奴等と会ったときのあの仲間との決して穏やかではないのにけれど入り込めない空気感とかオレの知らない真ちゃんの顔だとか過去だとかそんなものにも嫉妬して欲しがって届かなくて。
そんなお前達を見つけ出して引き上げて輝かせた王様なんだろ。
怖いんだ、何が起こるのか、何を見るはめになるのか。
オレがお前に言ってきた仲間だとかお前が最近受け入れ始めたチームプレーだとか、信じることが、不確かなものが、そんなオレの尊い、誰かさん達からしたらちっぽけかもしれない、でもオレにはとてもとても大切なものが、あっけなく折られて踏みにじられてしまうんじゃないかって。
怖いんだよ)

バスケも私情も関係無しにごちゃまぜになった闇がぐるぐると腹の中を蠢いて突っつく。ズキズキする。
努力はしてきた、吐くほど練習をした、その日々には嘘も偽りもない。出来ることはし尽くしたんだと自負出来る。それは自分だけじゃなくて、真ちゃんは勿論、あのおっかなくてだけど優しい先輩達だって絶対にそうだと言い切れる。
そしていま、真ちゃんの隣にいるのはオレ達だ。同じ場所に立って同じ目標に向かって歩んでいるのはオレ達だ。

それでもどうしようもないものがあるんじゃないかと、考えたくもない、けれどぬぐい去り切れない感覚。

胃がギリリと痛む。

「情けないよな、あんなに練習しても、心がこんなんじゃな。
ごめん、真ちゃん、がっかりさせるようなこと言って」

こんな、今更プレッシャーに押し潰されるような奴からなんて、パスされたくねぇよな。信じられないよな。
軽蔑されるのが怖くて、失望されたくなくて、だから隠していたかった。
真ちゃんだけには知られたくなかった。
失望されて、必要じゃなくなるのが怖かった、まだ始まってもいない試合が始まる前から終わってしまいそうで。

「…情けなくなどないのだよ」

けれど、オレが想像していたような蔑みの言葉は降ってこなかった。
驚くほど優しい声音に、思わず顔をあげた。
真ちゃんはオレをまっすぐに見ていた。その目だってあんまり穏やかなものだから、どうしたらいいか分からなくなる。
なんでそんな顔するんだよ。

「けど」
「大体、オレにだってそういった経験があるのだよ」
「は」

何言ってんの、真ちゃん。

「小学生の頃だ、ピアノのコンクールがあってな。全国区の、名のある大会だった。オレにとってはそれが初めての大舞台になるはずだったのだよ。
最終選考まで残ったのだが、あまりのプレッシャーで、そのときのオレはまさに今のお前のような状態になった。結局、それは治らず、オレは最終選考に参加出来ず、コンクールの参加を降りることになってしまった」

あれは本当に今思い出しても悔やまれるのだよ、と言う真ちゃんの顔は本当に悔しそうに歪められている。

「…」

あの真ちゃんに、そんなことがあったなんて。とてもじゃないけど信じがたい。
でも、とハッとした。
経験者だから、だから、オレの変化に気がついたんだろうか。気がついてくれたんだろうか。

「…思えばそれからかもしれないな、いっそう努力せねば、人事を尽くさねばと考えるようになったのは」
「…おは朝?」
「そうだ」

あんまり神妙な顔で頷くもんだから、ふはっと、我慢出来ずに吹き出してしまった。

「なんだよ、それ、そういうオチかよ」

声をあげて笑ったら、うるさいと怒られたのでしょうがなく笑いを堪える。
両手を合わせて顔の前まで持っていき悪かったと意思表示をしてみせみせると、真ちゃんはじろりとこっちを睨んだものの、ひとつ深く溜め息をつくと、気を取り直したようにオレに向き直った。

「だが、お前は、あのときのオレとは違うのだよ。
お前がどれだけ人事を尽くしてしたかは、オレが一番よく知っている」

至極真剣な声と視線に、目眩が起きそうだった。

「お前がオレのシュート練習を見続けてきたように、誰よりもお前の練習する姿を見てきたのはオレだ」

ほんとに、真ちゃん今日どうしたの。なんでこんなまっすぐに優しいんだよ。

「お前の努力はオレが保証する、オレ達はやれることをした。ならばあとはもう、勝ちに行くだけだ」
「…うん」
「…こんな言葉では、お前の不安は消えないかもしれないが」
「っなんだよ、そこで弱気になるのかよ!」

らしくねーから、とにやつく。
ほんとに真ちゃん、らしくねぇよ。

「ははっ…さんきゅー」

腹部の痛みは収まったわけじゃない。黒い感情は収まるかも分からない。
でも、信じてくれているのだ、このエース様がオレの積み重ねたものを。
こんなド直球に慰められてしまったら、ありがたく受け取るしかない。

「少し眠れ、目が覚めたら痛みがなくなってるかもしれない」
「そーさせてもらうわ、あ、なぁ真ちゃん、ひとつワガママ良い?オレが寝付くまでで良いからさ、もう少しここにいてくれよ」

右手を真ちゃんのほうへ伸ばす。
空中でぷらぷらと揺らすと、いかにも仕方がないというふうになんとも面倒くさそうに、しぶしぶと左手を差し出してくれた。
几帳面にテーピングされたその美しい指に自分の指を絡めて布団の上に落とす。
ぎゅっと力を込めてみると、握り返されて、頬が自然と緩んでしまう。

「授業があるから、お前が眠ったら出ていくのだよ」

だから早く寝ろと急かしてくる真ちゃんの顔は心なしか赤い。

「はいはい」

今更授業とか、本当はどうでもいいくせに、照れちゃって。
そんなこと言いながらきっとオレが眠ったっていなくなったりしないんだ。
目が覚めてもここにいて、オレの体調の具合を気にするに違いない。
指が痺れても、我慢強くこのまま手を繋いでいてくれるはずだ。
真ちゃんのそういうところ、オレ大好きだよ。
分かりやすく優しい真ちゃんは物珍しくて良いもの見れたけどさ。
でもいつまでも真ちゃんに心配かけるわけにはいかないから、オレ、強くなるから。

「なぁ、勝とうな」

オレはお前を勝たせたいよ。
お前とオレが信じたいものが真実だと証明したいよ。お前に、見せてやりたいんだ、きっと素晴らしいであろう景色を、美しいものを。一緒に見に行こう。

「ああ」

目を閉じる。
鈍い痛みは去らないけれど、それでも少しだけ、不快な重みはどこかへ溶け出したような気がした。

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