有り触れた空気の中で | ナノ



警察達が忙しく動き回り、その中心で糸鋸刑事が無線片手に指揮をとる。待っていても仕方がないということで私と冥は成歩堂の事務所に向かった。
事務所のドアの前、冥が顔をしかめて脅迫状を見る。赤いプレート越しにしか見えない青白い字は確かに成歩堂の血で、成歩堂の筆跡だったという。
「入りなさいな」
「…ム、開かない」
ガチャ、とドアノブを回すが、半分ぐらいしか回らない。鍵がついている。ということはつまり、成歩堂が誘拐されたのは自宅、ということになってくる。
「おかしいわね…」
「?」
「昨日は凄く雨が強かったわ。いくらバカでもあの中を帰る者はいないでしょう」
「いや…アイツはたまにその“いくらバカ”にはいるんだがな」
確かに昨日は記録的な大雨が一日中降っていた。あんな中に傘一つで帰るなど誰が考えるだろうか。…成歩堂なら、やる。シャワー浴びればなんとかなるだの無謀な事を言って風邪を引くタイプだった、アイツは。
「やっぱりおかしいわ。…足跡がない」
「まあたしかに、だな」
誘拐ならば当然、客人を装ってくる筈だ。しかしこの事務所の外廊下。昨日の土砂降りで泥だらけになったであろう靴跡がない。ふいたとしても、濡れ跡は冷たいコンクリに染み込むし、土が検出される、なのに。

「つまり。誘拐されたのは昨日より前ということだな」
「ええ。…このドア、ヒゲに破ってもらいましょう」

電話番号を呼び出す携帯のチープな音だけが廊下に響いた。成歩堂は無事だろうか。そればかりを考えてきた。同性の、愛する人。それは相手も同じで。

少し前に体を重ねたばかりなのに。もう成歩堂の居場所がわからないなど実感がわかない。柔らかい唇、決して膨らみのない、健康的な体を一週間前触った。責めて、真っ赤になった成歩堂を揺すった。好きだと言った、好きだと言われた。
…全部私のせいだ。

「はぁ、っ只今到着したッス!」
「ヒゲ、このドアを壊しなさい」
「それなら捜査官も連れてきたッス。こっちには最新のキカイがあるッスからね!」

なめるんじゃないッスよ、と糸鋸刑事はふてぶてしく笑った。成程。何の手掛かりも無いようだな、本当に。
「何で分かるの?」
「…何となく、だ」
ピンチの時こそふてぶてしく笑え。彼の師匠もその上司も言っていた、その言葉の意味が今わかった。


(笑うのも悪くない)

成歩堂を誘拐した犯人を裁く。その瞬間にふてぶてしく笑って見せようじゃないか、成歩堂。