親不孝
親不孝者、と誰かが罵る夢を見た。誰が親で、誰が子供なのかはさっぱり分からない。分かりたくもない夢を見た。神に選ばれたとか、そういう神聖な者は予言や予知を夢で視るらしいが、さくらはそういう者ではないことを理解していた。これはまたあのこんちくしょうなアルセウスが、きっと嫌がらせで視せてくれやがった性悪すぎる根性の捩れ曲がった夢。さくらの首筋を冷や汗がたらりと流れた。主人公であるべきトレードマークのピンクと黒の服にも、汗がべったりとくっついていた。人間は誰しも、何かしらの主人公であると本で読んだせいで、主人公気取りをしてみたくなったことは内緒の話。ぼんやり転がったまま、正体不明の植物と暗黒っぽい空を眺めていると上から暗黒よりも真っ黒な物体が降ってきた。
「ごきげんよう、マドモアゼル」
ギラティナが見下ろしている。ご丁寧にもシルクハットを脱いで、さも敵対心などございませんと体現したにこやかな顔をさくらに向けていた。その奥底で揺れているのは嫉妬と憎悪がこんがらがって、ぐちゃぐちゃになったものだろうに見えて、シカトしては殺されかねないとさくらは仕方なしに目線を彼に合わせた。無風の丘で、二人は見つめ合う。無知な人間がこの場に居合わせたなら、きっとギラティナは殺してしまうだろう…それくらいにはギスギスした雰囲気である。だがしかしさくらが起き上がる気にならない。
地面が堕ちる。
「勝手に人の夢を盗まないで頂きたい」
若干の苛つきを隠さない声色で、ギラティナはさくらの顔面にシルクハットを落とした。シルクハットの軽さではあまり痛みを感じはしなかったが、それでも起き上がるくらいにはさくらもある程度はムカついていた。お互い短気であるが仕方ない。性格は産まれもって決められているのだ。
「なにそれ、言いがかりだわ」
「見たのでしょう、私の夢を」
「知らない」
ふん、としかめっ面でそっぽを向く。そもそも見たくて覗いたわけではない。勝手に見れてしまったものに文句を付けられても困りものである。言いがかりを付けられた気がして大変に胸糞が悪い。さくらはギラティナにたとえ大声で罵られ責められようとも、己が見たおぞましい夢の内容を謝罪する気持ちなど一欠片も持ち合わせてはいなかった。頭の隅にすら置くことを許さない。許可しない。我を通すさくらに対して、ギラティナはふぅ…と諦め気味に溜息を吐くと肩を竦めてやれやれと首を横に振った。さくらが臍を曲げるとどうこうしようと良いように動かないことは実践済みだと苦笑する。だいたいがバカにしている。ギラティナが何を思考しているか読み取れたさくらは、すぐさま口を開いて反論しようとしたのだったが、すぐにいつもの腰巾着(又の名を金魚の糞)であるヤツが、ギラティナの隣に控えていないことに気付いた。
風邪を引いたか。
それともアタリか。
「黒い奴は?」
「今日はいません」
確認作業で頭を交互へ。すぐさまの返答にさくらは目を丸くした。冷涼に答えたギラティナは黒いシルクハットから、あり得ない質量だろう大きさの紅茶タイム用のセットを引きずり出す。机やらパラソルやらどこにどう仕舞えば収まりきるのかとさくらは少々引き気味に気持ち距離を取った。いつも通りならダークライが全ての作業をやるが、生憎不在であるならギラティナでも力仕事をやるらしい。紅茶まで淹れている。茶葉の種類は知りたくもなかった。注いだ紅茶の湯気からは鼻がもげてしまう程臭い何かが溢れ出てきている。生物兵器を口に含むギラティナは人外と形容しよう。さくらは臭気と現状に顔をしかめた。
「あれといないのが珍しい、という顔をしていますね」
「見間違いじゃないかしら」
「もっといい言い訳なら笑って差し上げましたけどね、まぁ許しましょう。私はこちらの世界を統べている王様ですから」
王者の余裕というヤツで、ギラティナはそっぽを向いたままのさくらに対してクックと嘲笑を込めて笑った。そのうち酷い臭気にもさくらの鼻は慣れてきて、無言の時間になんだか頭がおかしくなりそうな感覚を覚えてくよるようになった。さくらが唾を飲み込む程々会話という水分を欲していることを知ってか知らずか、目の前にいる男はさも優雅に人間らしく、人間を騙って余裕を見せ付けてくる。
「あの夢、」
たまらず口を開いた。
負けた、と思った。
「親不孝者ってあなたのことよね」
だからか、いじらしい悪あがきをする。
「アルセウスに投げ付けられた言葉をまさかあなたに言われるとは思いませんでした。ええ、そうです。私がこちらの世界にやってくるハメになった時、アルセウスにはそうして憎しみたっぷりに豪速球で投げ付けられましたね、本当に愉快な光景でしたよ。あの方はメジャーリーガーでも目指せばいいのに惜しい惜しい」
「悪気はないのね」
「ない方がタチが悪くて困ります」
「まるで他人事だわ」
本当に他人事ですからね、と呟くギラティナに気持ち悪いわね、とさくらは返した。実際は、気持ち悪いとかいうよりももっと違う、形容しがたいナニカだったけれども、さくらに思い付くぴったりの単語は気持ち悪いしかなかったのだった。あとはポケモンが野球…しかもメジャーなんてものを知っているのに単純に驚いて頭が回らなかった。理解の先に行くのは悔しい。無風だった世界にいつの間にか微風が吹いていた。ぐちゃぐちゃな天地がないこの反転世界にも、変化はあるものなのだと乱れる髪を抑えながらさくらは目を細める。彼方にアノヒトでもいる気がして、すぐに見据えるのはやめた。
「恥を晒してしまったからには、お詫びとしてシェイミを一匹丸々飲み干してしまいたくなってきました」
思い付いたかのようにゲテモノ発言を言う。いつ何時誰がお詫びでシェイミを飲み込めと命令したことだろう。あんなタワシはそもそも不味そうである。
「ただの願望じゃない。連れてきてないわよ、あのポケモンはあなたが嫌いみたいだからお願いしたって来てもくれないでしょうね」
「それもまた実現できない夢ということなのでしょうね…あぁ、きっと生肉の味がするというのにここにはいない」
「ゲテモノ喰い」
生き物はみんな生肉の味でしょうなんて下衆な返しは止めておいた。突っ込んでもきっと、このポケモンのペースに乗せられて、さくらが悔しがって泣きを見るに決まっている。さくらの悪態は届いてはいないらしく、ギラティナはゲテモノを食べる夢に想いを馳せてトリップしていた。人間を騙っているとはいえ、大の大人がキラキラとトリップに走る姿は見苦しい。ダークライがいないのにこんなの悪夢だわ…とさくらは顔を覆って心底ボヤいた。
「私の悪夢を覗き見た報いです」
「あなたの悪夢はダークライのせいでしょ」
覆っているスキマから睨む。
「いえ…私の悪夢はあの子が請け負うには少し荷が重いのですよ、さくら。しかし生き物は悪夢を視ておかないと現実に感謝することもできないでしょう…今頃アルセウスも悪夢を視ているのかと考えるだけて笑えます」
「つまりあなたはとっても悪趣味ということね」
「知れたことを。ディアルガくんもパルキアくんも、良い子に出来すぎていて駄目なんです。いつかここから這い出て、アルセウスに一矢報いてやりますよ。空振り三振を決め込むのはそれからです」
「期待してるわ」
全力フルスイングを決めてやりますよ、とバットを振るう動作をするギラティナが、さくらには道化に見えた。叶いもしない夢に想いを馳せる道化。カラカラに晴れた太陽の下、いつも通りの笑顔ではなくて凍った無表情の顔でギラティナを見つめるアルセウスと、ヘラヘラと笑うことなくぐしゃぐしゃに崩れ切った顔をして、ディアルガとパルキアに押さえつけられているギラティナの様。あぁ今まさに親と子はその縁を切ろうとしている…悲しい夢だった。まさに悪夢だった。誰が悪いわけではない。ただアルセウスはギラティナの力を見誤っただけだったのだし、ギラティナはアルセウスから受け取った力の使い方を知らなかっただけだった。誰も笑うことはない、最後の家族の団欒。パルキアは目を伏せ噛んだ唇から血を流す。ディアルガは涙とも汗とも分からない水滴と血が混じった顔で項垂れている。『俺を産んだことは感謝しよう。だがお前を死ぬまで怨む。恨み続ける。こんな体にしたのはお前だというのに世界を奪ってくれようとはどこまで烏滸がましい奴なのだ』と奥底から声がして、ギラティナは反転世界へと姿を消した。取り残された二匹と1人が聞いたのは、悲痛な叫び。後悔。きっとギラティナはあの日にアルセウスを悲観させ決別してしまったことを悔いているのだ。だからこそ、こうして終わらぬ悪夢に身を投じて求め続ける。フルスイングなぞハナから決めるつもりがないことをさくらは知っていた。見ていた。視ていた。アルセウスがどうして欲しいのかをさっぱり理解はできなかったとしても、やはり家族喧嘩は見苦しい。
さくらは既に巻き込まれている。
【サイレンは聞こえない】
「どうです、お茶でも」
「結構よ、ありがとう」
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bkm