ただ何と無くだった。
深い山の木々のざわめきに誘われるように、村をふらりと離れた。普段の草履を履いてきたため整地されていない山奥は歩きにくかったが、そのときは気にならなかった。

俺の村には言い伝えがある。自分は全く信じていないけれど。
俺の村のすぐ横には山があって、そこは見た目より深く、入ったら慣れた村の猟師以外は帰ってこられないらしい。
言い伝えでは、大昔に俺らの村の祖先達は村に生まれた一匹の鬼を村の守り神(鬼神さまとか呼んでた)として崇め、山の奥の奥に社を建ててそこに住まわせ、奉ったという。
祖先達は鬼神さまの真に眠る狂気が目覚めて、もし暴れだしても絶対外に出られないように、山の木々に一定感覚で札や鈴とかの結界を貼ったらしい。そして村の人間はけしてその結界の内に入ってはならない。

俺の村ではもう山に無許可で入ることすら禁じられており、たまに村の男が自分の強さを証明するために密かに山に入ったりするくらいだ。

さて。俺は別にそんな強さだとか根性だとかそういうのを示したかったわけではない。けれど今俺は、その言い伝えのお札とかが貼ってある木の前に立っていた。

「…やべぇ」

村長に怒られるなぁ。俺の評判落ちるんだろうなぁ。
頭の中ではそんなことがぐるぐると回っていたが、帰ろうという選択肢はなかった。未知の物への好奇心があった。
振り返って、もう深い暗闇に落ちた帰路を見る。

「行くか…」

パキンと小枝を踏み締めて、俺は札の貼られた木を通りすぎた。




進めば進むほど、不思議なことに山は明るさを取り戻した。
朝が来たからというだけではないらしい。
真上をぐるりと見渡せば、木々の感覚や葉の生い茂り方が実に日光をよく取り込むように出来ていた。
(人の手が加わっている…?)
明らかに自然にできたものじゃない。
やはり言い伝えは嘘だったかと少し落胆した。

「やっぱりそんな現実味のないやつ…あ?」

しばらく上を見ながら歩いていたので、ふと足元の感覚が違ったことに驚いて下を見れば、綺麗に敷かれた石畳がそこにあった。
思わず後ずさった拍子に俺はつまづいてしまい、ドサリと尻餅をついた。そして見上げた風景に更に驚いた。

「え…」

真っ赤な錆一つない、大きな鳥居が目の前にズドンと構えており、その先には周りに季節外れの紅葉が散る、簡素な社がぽつんと建っていた。
紅葉を除き、そこだけまるで円を描くように木々は社を避けて生えていた。
キラキラと光る日光が紅葉を透かして紅く光り、社の周りを幻想的に飾っていた。

「…社…鬼…」

まさか、と何度も目を擦り、自分が疲労の末に見た幻ではないことを確認する。
幻想的で神々しいその様は、明らかに人の住む領域ではなかった。

「嘘だろ…ちょっとさすがにヤバいんじゃねーのこれ…」

乾いた笑いをこぼしながら立ち上がり、さすがに帰ろうと思い踵を返したところで、ふと聴き覚えのある唄が聴こえた。

「?…村唄?どうして…」

か細く凜と響く歌声は酷く柔らかで、自然と帰ろうとする足が止まる。
村で何度も聴いた村唄。ゆっくりとしたペースの眠たくなるようなそれは、紅葉の中に佇む社の中から聴こえていた。

半ば無意識に足は鳥居をくぐり抜け、社のほうへ向かっていった。依然聴こえる歌声はこちらに気づいていないのか止む気配はない。

できるだけゆっくりと社の低い階段を上りきると、観音開きの大きな扉が目の前に現れた。その扉に組み込まれた木の格子の窓から、そっと中を覗く。

「…ー♪」

少し薄暗い中に蝋燭一本。その横に背を向ける淡い空色の髪が見えた。
唄に合わせてシャリシャリと聞こえるのは、多分、お手玉だろう。

「綺麗だな」
「!?」

歌声が途絶え、歌声の主がバッとこちらを向いた。
あ、と思った頃には遅く、俺は声をかけてしまっていた。

「誰だ?」

少し高めの声、薄墨をした瞳、紅い着物、空色の髪。
そこから生える、クルリと巻いた黒光りする角は、幼い顔立ちには酷く不釣り合い。
驚いて目を向くその子鬼に、俺は不思議と驚くこともなく、こんなチビが神様かと、呆れて笑った。