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目を覚ますと薄暗いホテルの部屋に寝かされていた。

ああ、鬼道の部屋だ。

何度も見上げた事のある天井を、ボンヤリと眺める。
自分は鬼道と話している途中に倒れたのだ。

イタリアへ帰る前夜に随分と迷惑をかけてしまった。周りを見渡すと、隣の部屋から微かに光が漏れている。
鬼道は隣の部屋にいて、俺がベッドに居るせいで、眠る事も出来ずにいるのだろう。悪い事をした。

ふと、倒れる寸前のやり取りを思い出すと、また胸が苦しくなる。

あんなに、あんなふうに蔑まれるなら、親友でいた方が良かった。それなら何年かに1度は会って、食事をしたり出来たのに。

馬鹿だった。短期間の恋人なんて、後に残るのは辛い想い出ばっかりだ。

たくさんキスされたし、求めてくれた。嫉妬されたり、少し意地悪く言葉で責められるのも嫌じゃなかった。

嘘でも、その瞬間だけは愛されているように感じたから嬉しかった。

なのに、金が目的だったのだと言われて。鬼道を好きな気持ちが酷く汚されたようで、悲しくて苦しくて、堪えられなかった。

傍に居られなくても、想われなくても、好きでいさせて欲しかったのに。

お金で換算されてしまったら、もう想い続ける事が出来ない。好きだという気持ちすら醜い物になってしまう。


自分の、鬼道へのこの想いは醜い。


涙が瞬く間に溢れて頬を伝い、顎から落ちてゆく。


帰ろう。


鬼道に気付かれない様に、そっとベッドから出る。金なんて受け取りたくない。
服は来た時のままだから、このまま帰ることも可能だ。黙って出ていこうとして、ふとポケットに入れていた家の鍵と財布がない事に気付く。横のサイドテーブルにもない。

まさか鬼道が持っている?

返して貰う為には声をかけなければならない。けれど、もうあんな冷たい視線に堪えられそうになかった。

返してくれと言ったら投げて寄越されて、迷惑だから早く出ていけと言われるに決まっている。

あの、軽蔑した眼差しで。

鬼道に会いたくない、怖い。身体が寒くもないのにカタカタ震えてしまう。涙も流れっぱなしで止まらない。

周囲をよく探してみたが、足元が薄暗くてよく見えず毛足の長い絨毯で躓いて膝をついてしまう。大きな音がした訳でもないのに、途端にパッと部屋が明るくなった。

「豪炎寺……」

声に振り向けば、驚いた顔をした鬼道がドアの所に立っていた。

「鍵と…財布を…」

嫌だ。また罵られる。

「ああ、貴重品はこっちの部屋にある」

「返…して貰ったら、すぐ出てく……から…」

声がうまく出せない。鬼道が1歩こちらに踏み出しただけで、身体がビクンと揺れてしまう。

「あ…、っ、ほんとに……、出てく、からっ」

出て行くから、もうこれ以上嫌わないで欲しい。

「何もいらな…からっ、だから……」

金なんていらないから。

「泣いてるのか?」

普通に問われただけなのに、泣くなんてと非難された様に感じて、ただ首を振る。その拍子に揺れで涙がぼろぼろと落ちた。

「泣いてるだろう。……大丈夫か?」

近づいてくる鬼道から離れ様と後退りしてしまう。

「…っ…、や……」

こちらの様子に構う事なく鬼道は傍に来て、強引にベッドへ座るように手を引いて促した。
逸らした目をじっと覗き込まれ、居たたまれない。

「こっちを見ろ、豪炎寺。きちんと話をしよう」

「……っ…」

話とは、もしや金額の事だろうか?これ以上惨めにさせないで欲しい。

絶望的な気持ちで黙っていたが、鬼道の口から出たのは謝罪の言葉だった。

「さっきはすまなかった。ついカッとなって、酷い事を沢山言ってしまった……後悔している」

「………別に」

怒ってなどいないと首を振る。ただ、悲しかった。俺は鬼道を好きでいたかっただけなのに。

「豪炎寺が"恋人ごっこ"だなんて言うから、ショックでつい手が出てしまった」

言われて思い出した。そういえば頬を張られたのだ。

「豪炎寺が遊びのつもりだったのだと分かって、頭が真っ白になってしまって」

遊び?俺が?

「この2週間は何だったのかと思ったんだ」

眉間に皺を寄せ、鬼道は切なそうに視線を逸らした。何故だろう、鬼道の話ではまるで俺の方だけが遊びで付き合っていたかの様だ。

やはり、おかしい。お互いの認識にズレがある。

「鬼道は、俺とは遊びのつもりじゃなかったのか?」

「馬鹿にするな!いい加減に……」

「だって、鬼道は俺を好きじゃないだろう…?」

そう、好きじゃない筈だ。鬼道にとって、俺は中学からの親友なのだから。

「は?何を言っている」

「鬼道は、俺が可哀想だから仕方なく付き合ってくれていたんじゃないのか?」

酔って告白した俺を哀れんで、お情けで抱いてくれたんじゃないのか?

「可哀想?何が可哀想なんだ」

本気で分からないといった表情に、困惑して。
思い当たる理由はひとつしかない。記憶がない数時間に、自分の予想とは違う何かが起こっていたのだ。だから、合わない。

責められても軽蔑されたとしても、確かめなければ。

「鬼道、聞きたい事がある」

「……何だ」

こうなったら、正直に言うしかない。

「円堂の結婚式前に一緒に食事をした、あの日の事なんだが」

鬼道と初めて身体を繋げた日。

「あの日が何だ」

鬼道の訝しむような声に黙ったまま続ける。

「実は、その…かなり酔っていたせい、で……」

「何だ、はっきりしないな」

「記憶が曖昧…というか」

恐る恐る告げると、鬼道が言おうとした事を察したのか瞳を見開いた。

「まさか、憶えていないのか?」

鬼道の驚きの声に、顔を上げられない。

「すまない、食事の途中からボンヤリとしか憶えていなくて……気付いたら、その…鬼道と……して、て」

「………」

黙ってしまった鬼道に、なんとか少しでも呆れられないように言葉を選ぶ。

「鬼道と、どうして今の関係になったのかが分からなくて…。俺は、てっきりお前が日本にいる間だけ付き合う約束をしたんじゃないかと思っていたんだ」

一息に話しきると、恐る恐る鬼道に視線をやり反応を待った。

「お前は酔うと誰とでも寝て、そのうえ恋人の真似事までするのか」

「…ち、……違うっ」

ややキツい視線に、つい言い訳めいた返しになってしまう。

「しかし、過去にも同じような経験があったからこそ、そう考えたんじゃないのか?」

「そうじゃない!そんなんじゃ…ない」

誰とでもだなんて、そんなんじゃない。ずっと、ずっと鬼道が好きで、忘れられなかったのに。

せっかく止まっていた涙が、またジワリと浮かんできた。

「鬼道が好き…だったから、酔った勢いで気持ちを告げてしまったんだと思って……っ」

「………」

「恋人みたいに接してくれるのは、きっと俺に同情してくれたんだと……」

「普通、同情で男を抱くか?」

「あの時は鬼道も酔っていたし、試すくらいはしてくれたんじゃないかと思ったんだ……」

よく考えれば、かなり強引に解釈していたのかもしれない。

「それで?なぜ憶えていない事を黙っていた」

「……嬉しかった、から」

「それが例え偽りでもか」

偽りを承知で関係を続けていた。切なさより嬉しさが上回っていたし、2週間だけでも恋人のように扱われるなんて夢みたいで。

「そんな関係、惨めだとは思わなかったのか」

惨め?

思ったに決まってる。

「ずっと好きで、でも諦めていた相手に嘘でも好きだと言われたんだ、惨めでも何でも良かった!」

つい感情的になってしまう。もう、泣く事も気にならない。

「辛くてっ……でも幸せ、だったんだ」

「豪炎寺……」

俺の勢いに圧倒されたのか、鬼道はそれ以上何も聞いて来なかった。

もう、隠し事は何もない。自分の気持ちは全て曝け出した。

「鬼道、記憶がない間に何があったのか教えてくれるか…?」

空白の時間、一体何があったのかは分からないけれど、もう失う物なんてなかった。






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