程遠い




あれから泣き止むまで抱き締めてくれた彼は、1度家に戻ると言って、部屋から出ていった。

1人になると、じわじわとタイムスリップしたのだという実感が湧き起こる。

部屋中は初めて見るものばかりなのに、どれもが何だか懐かしい。馴染む、というのだろうか。

マンションなのだろう。折角なので、各部屋を見て回る事にした。大した昔と変わらない、シンプルで落ち着いた色身の家具、配置。10年経っても、自分の趣味嗜好は変わらないようだ。

けれど。

いくつかある部屋の中で、1部屋だけ明らかに雰囲気が違っていた。

起きたままになっているベッド、壁に貼られたポスター。本棚にはサッカー関係の書籍や雑誌が無造作に並び、少しだけ漫画もあった。床に転がったサッカーボールと、FFI優勝の時の写真が入った写真立て。サッカーが大好きな人間の部屋。


円堂の、あの人の部屋だ。


すぐに部屋から出る。人の部屋に勝手に入った気まずさよりも、苦々しさが先に立った。

馬鹿じゃないのか。
既婚者に部屋なんか用意して…10年後の自分は何を考えているのだろう。

足早に自分の部屋に戻る。部屋中見回しても、知っている物は妹の写真くらいしかなかった。
大切な妹がメガホンを持って笑っている写真。
この写真立ては特別大事にしていて、FFIにも持って行ったものだ。

──大切な写真が、写真達が入っている。



まさか。



ハッと思い出し、写真立ての後ろを震える手で開けた。
昔、入れたのだ。2人目の大切な人の写真を。

中からは、太陽のような笑顔の、円堂の写真が出てきた。

まだ、10年経っても写真すら捨てられない程、自分は円堂が好きなのか。
不毛な関係を断てない程。

自室なのにおおっぴらに飾る事すら出来ず、こんな隠したままでいる10年後の自分を、ただひたすらに惨めだと思った。
同時に、憐れだとも。一生円堂を好きで、離れられないのだと。



幸せとは、程遠い。



10年後の未来に来て分かった事は、自分には円堂をただひたすらに愛し続ける、先の見えない地獄のような日々が待っているのだ、という事だけだった。



*



「豪炎寺、ただいまー!」

2時間程すると、円堂さんが帰ってきた。丁度昼食を作っていた時だ。キッチンへ顔を覗かせる彼に、声を掛ける。

「早かったですね。円堂さん、お昼御飯食べますか?」

「お、いいのか?」

「はい、材料があるので大丈夫です」

まだショックは拭えないが、なんとか気持ちを切り替えようと努める事にした。
きっと、そのうち元の世界にだって戻れる筈だ。戻ってから、色々と考えなければならない事はあるけれど。

「おー、美味そう!豪炎寺は中学生でも器用だなー」

「ただの焼きそばです」

フライパンと箸を持ち、調理をしていると、突然後ろからギュッと抱き締められる。

「…っ、…円堂…さん?」

「いっつも豪炎寺にはこうしてるんだ。だから、いいだろ?」

「だ、め…です」


いつも、こうしている。


"こう"というのが、調理中に抱き付く事なのか、帰ってきたら抱き締めることなのかは分からない。けれど。

こんなに甘やかされているから、離れられないんだなと、少し10年後の自分の気持ちが分かった気がした。

結局、焼きそばを器に盛るまで円堂さんには抱き付かれたままで、驚くよりも半ば呆れてしまった。

「ご馳走様でしたっ」

「お粗末さまでした」

2人で昼食を食べ終え一息つくと、円堂さんがやけにニコニコしてこちらを見ている事に気が付いた。

「…どうしたんですか?」

「俺、決めた!豪炎寺が元に戻るまで、ここに泊まる事にする」

「えっ、いや、いいです…大丈夫ですから…っ」

自分1人で一通りの家事はこなせるし、何よりそんな勝手な事をして、奥さんは怒らないのだろうか。

「大丈夫じゃないだろ!中学生を1人になんて出来ないし。な?」

「……家の人が…心配します、よ」


奥さんが、とは言えなかった。


「ああ、大丈夫!俺、元々わりと外泊する事が多いから、慣れてるみたいで何も言われないんだ」

「そう、ですか」

その外泊先は、多分ほとんどこの部屋なのだろうと思うと本当に申し訳なかった。

「……豪炎寺、こっち来てからずっと元気ないな」

円堂さんがガタンと向かいの椅子から立ち上がり、傍に来る。頭を撫でたり、頬に触れたりされ擽ったい。

「そんな事、ない…です」

「不安な時は、無理すんなよ。な?」

「別に不安じゃ、ない…で……っ、……ちょ、円堂…さ!?」

突然抱き上げられて、抵抗も虚しく寝室まで連れていかれる。ベッドにそっと降ろされると、そのまま一緒に円堂さんも上がってきた。

「豪炎寺、しようか」

「っな…にを…!?」

まさかこんな昼間からするつもりなのかと、焦って言葉が出ない。それ以前に、この人は俺の知っている円堂じゃなくて。
少しパニックになってぐるぐる考えていると、一瞬キョトンとした後、笑いながら答えてくれた。

「何って、昼寝。たまーにすると気持ちがいいんだよな!」

「は?」

あまりにも健全な内容に、ついつい素で返してしまった。自分はなんて事を考えていたのだろう。深読みのし過ぎだ、恥ずかしい。

「不安な時はさ、人にくっついて寝ると安心するんだぜ!」

言い方が紛らわしい。

「寝ま、せんっ」

拒否しても、円堂さんは何もなかったかのように気にしない。

「ほら、もっとこっちこいよ」

腕を取られ、抗う間もなくぎゅっと優しく抱き締められる。

懐かしい、円堂の匂い。

「……強引、ですね」

「そうかあ?」

至近距離で、心臓の鼓動が聞こえる。規則正しく刻まれる音に、何故だかホッとした。あたたかい人肌が気持ち良くて、こっちに来てからずっと張っていた気がじんわりと緩む。


すごく、安心する。


円堂さんは暫く放してくれそうにないし、仕方がないから少しだけ…と急激な睡魔に逆らわずにゆっくりと目蓋を閉じた。



*



瞳を閉じた豪炎寺からは、すぐにすうすうと寝息が聞こえてきた。よっぽど疲れていたのだろう。

中学生にタイムスリップなんて事実、受け止めきれなくて当然だ。むしろよく冷静に対応していたと、感心するほどだ。

「…ぅ…ん…」

眠った豪炎寺にシャツをキュッと掴まれる。甘える様に擦り寄る仕草がまるで子猫のようだ。

「……ホント、甘えんの下手なのも変わってないな」

豪炎寺のいつもより華奢で小さな背中をゆっくりと撫でながら、小さく溜め息まじりに笑ってしまった。







×
- ナノ -