指輪




朝、ずっと部屋から出ないでいると円堂さんが起こしにきた。控え目なノックの後、気遣う様に声を掛けられる。

「豪炎寺、起きてるか。具合でも悪いか?」

正直、出て行きたくない。酷い顔をしているだろう事は疲労感から鏡を見なくても分かる。

「大丈夫です」

「なら良かった。なあ、部屋入って良いか?」

「……はい」

本当は嫌だけれど、円堂さんの事だ。断ったってどうせ最終的には入ってくるだろう。

そっと開いたドアから円堂さんが顔を覗かせる。ベッドに近付いてきた円堂さんの表情で、昨夜の事を気にしているのだとすぐ分かった。

「豪炎寺、もしかして寝てないのか?」

一目で見抜かれる程顔は酷いらしい。

「大丈夫です。それより円堂さん」

夜通し考えた結果、円堂さんは奥さんの所へ帰してあげるべきだと思った。
自分はいつ元の時代に帰れるか分からない。いや、帰れないかもしれないのに、これ以上付き合わせる訳にはいかない。

「明日からは、もうここに来ないで大丈夫です」

だから自分の家に、奥さんの待つ家に帰って。

「俺は別に1人でも生活出来ますし、円堂さんもそろそろ元の生活に戻った方が良いと思うんです」

出来るだけ平静を装いながら言えば、円堂さんの表情がみるみる曇った。

「突然何言うんだよ?」

「突然じゃないです。前からずっと考えていたんですが、なかなか言い出せなくて」

そうだ、本当はこうするのが良いと最初から分かっていた。今まで言えなかったのは自分の弱さだ。

「昨日の事が原因か?」

「まさか、違います」

首を緩く振りながら笑いかけると、円堂さんの眉間に皺が寄る。安心させたいのに、笑う程円堂さんの表情が歪んでしまうのが悲しい。

「そんな顔して、無理に笑おうとするなよ」

「無理なんて」

していない、と続けようとした時、手の甲にパタリと水滴が落ちた。生温いそれは明らかに自分の瞳から出たもので。

「…あ……、っ」

泣くつもりじゃなかった。もっと上手く言える筈だったのに。

涙は次々と落ちて、円堂さんはそんな俺を辛そうに見ている。優しい人だから、きっと一緒に辛い思いをしているのだ。

「豪炎寺、指輪の事は…」

「良いんです、気にしないで下さい。俺が立場をわきまえなかったせいですから……」

子供過ぎて、つい指輪を外してなんて言ってしまったけれど、もう円堂さんを解放してあげると決めたのだから。

「円堂さんがあんまり優しいから、ちょっと間違えただけです。もう大丈夫です」

きちんと理解した。円堂さんには大切な人がいて、それは自分ではない。あくまでもこの関係は不倫を越えない。

心配そうな円堂さんが抱き締めようと手を伸ばして来たので、やんわりと押し返す。

そういうのは、もういい。

温かくて守られているみたいで心地よかったけれど、それは本来俺へ向けられるものじゃないから。

「出て、って」

嗚咽で声が少し途切れてしまった。

「豪炎寺……」

「出てってください」

これ以上一緒に居るのが辛い。

「何でそんな寂しい事言うんだよ」

「寂しくなんてないです。きっと、奥さんの方が寂しい……」

本当に悪い事をした。奥さんから一時的にでも彼を奪った。

「もう俺は平気だから、ちゃんと家に帰ってあげて下さい。こんなの間違ってる」

好きな人を裏切るなんて、自分の知ってる"円堂守"はしないから。

「奥さん……」

ポツリと呟いた円堂さんは、ひどく神妙な顔をしている。腕を組んで、考え込んでいる様子に違和感を感じて。

「円堂さん……?」

恐る恐る呼ぶと、突然大きな声で叫ばれた。

「っああーーー!だからか!だから最初っからあんな寂しそうな顔ばっか…っ」

予期せぬ大声に驚いて、一瞬涙も止まった。妙に納得した様子の円堂さんは"そうだよなあ"とか1人でブツブツ言っている。

「あの……」

「ん?」

「え…っと、いるんですよね?奥さん」

左手の薬指に指輪をしているのだから当然だ。

「ああ、何ていうか美人で可愛くてしっかりしているようでそうでもない、みたいな」

やっぱり。

「寂しがりやで、料理が上手で」

「そう、ですか…」

あまり詳しい事は聞きたくなくて、つい返答が小声になってしまう。

「特に焼きそばとか美味しくて、酔っ払った時もちゃんと介抱してくれて」

「……」

「サッカーがスッゲー上手くて、それに赤がよく似合って」



サッカー?赤?



『やっぱり豪炎寺は赤って感じだよなー!カッコいいし、綺麗だし』

中学生の円堂が俺に言った言葉を不意に思い出す。けれど円堂さんにとっては随分昔の話だし、まさか憶えてなんていない筈だ。

確かめる様に円堂さんへ視線を向ければ、悪戯っ子のような表情をしていて。

「思い出したか?」

「どういう……」

意味がわからず困惑した俺を見兼ねて、仕方がないなと円堂さんが呟く。

「豪炎寺が奥さんなんだけど」

「え?」

「だーかーら!豪炎寺が、俺の、奥さん」

固まっている俺に分かるよう、円堂さんはわざわざ一言ずつ句切りながら言ってくれたが、それでもまだよく意味が飲み込めない。

「俺、男ですよ」

「ああ、だから籍は入ってないんだけど。海外で式だって挙げたんだぜ」

「しき?」

式とは、結婚式の事だろうか。というか、俺と円堂が結婚?

何を言っているんだろう。

同情?慰める為の嘘?それにしては下手過ぎる。

「式って言っても2人だけで教会で"誓います"って言い合っただけだけどな!記念にってお姫様だっこしたらメチャクチャ嫌がられてさ」

未だ信じられない俺を余所に、円堂さんは懐かしむように笑っている。

俺が円堂と?そんな事、絶対あり得ない。

「何言ってるんですか。馬鹿な冗談はやめて下さい」

そんな誤魔化し方は酷いです、と抗議しようと見れば、逆に真っ直ぐ見つめられて言葉が出なくなった。

「豪炎寺はホントに信じてくれてなかったんだな」

哀しそうな視線と責めるような声にドキリとする。

「ずっと一緒にいようって、絶対幸せにする、ってあんなに何度も言ったのに」

「あ……」

確かに、身体を重ねた後円堂はいつも言っていた。そのたび切なく思っていて。

まさか本当に?

「豪炎寺、教会で言ってたんだよな。"幸せにする"なんて無理だと思ってた、って」

「あ、当たり前です……」

中学生の、しかも男同士で将来の約束なんて叶う筈ないと思うのが普通だ。本気にしたら深く傷つくから、信じないように自分を守っていたのだ。

俺の心中を察したのか、冗談めかして円堂さんが続ける。

「俺を誰だと思ってんだよ。廃部寸前のサッカー部から、世界一まで上り詰めたんだぞ?」

「でも、俺は男だし円堂には俺じゃ、俺なんかじゃ……っ」

円堂にはもっと相応しい女の人がいる筈なのに。

「性別なんて関係ないだろ」

「でもっ…」

それじゃあ。

「子供……とか」

円堂から子供のいる幸せな家庭や未来を全部奪ってしまう。

そんなのだめだ、と呟くと、真剣な瞳で顔を覗き込まれて言われた。

「俺は豪炎寺がいればいい。豪炎寺と一緒にいられたら、他に何も要らない」

「──…っ」

中学生の時と同じ言葉。揺らぎも迷いもない眼差し。

「さ、サッカーも…ですか?」

あの時と同じように返す声が震える。また泣いてしまいそうだ。

10年前のあんな些細な会話を憶えているのか、円堂さんはにっこり笑いながらやはり同じ様に抱き締めてくれて。

「いや、サッカーはいる!」

ああ、円堂はこういう男だった。いつもどんな時も諦めない、不可能も可能にする意志の強さ。

「俺、10年後も円堂の傍にいられるんですか?」

ずっと聞きたかった事を、今ようやく言葉にする。

「10年後っていうか、ずっとだな」

「なら、その指輪は…」

「結婚指輪。まあ、豪炎寺はあんまりこういうのしたがらないんだけど、俺が買おうって言ったんだ」

「円堂さんが?」

意外だと声に出ていたのか、円堂さんが微妙な顔をしながら説明する。

「……豪炎寺、男女問わずスッゲーモテるんだ。だから虫よけ。本人には言ってないけど」

「!」

「って事で、自分からしようって言った手前、俺も外さないって決めてたんだ」

だから昨日はごめんな、とすまなそうに謝られる。

10年後の俺との指輪。

「付き合ってるって、最初に言えば良かったなー。豪炎寺とは一緒にいるのが当たり前だって思い込んでたからな」

それ以外にも、円堂さんは俺の質問に丁寧に答えてくれた。

ここは俺名義のマンションで、かなり前から同棲している事。ただ、2ヶ月程前から円堂さんは仕事の都合で職場に近い実家から出勤していて、今は単身赴任のような感じなのだとも。

「てっきり奥さんがいて、俺の所へは通ってるんだと思ってました」

正直に言えば、円堂さんは苦笑している。

「俺、不倫とかしそう?」

「……少し」

ひっでえ、と円堂さんが笑う。背中へ回されていた腕にぐんと引き寄せられて。

「そういう豪炎寺は、不倫だって思っててもこんな事許しちゃうんだ?」

頬や目許に口づけながら、仕返しとばかりにわざと意地悪く聞かれる。

「円堂さんの……円堂の傍にいられるなら、不倫でも何でも構わないって思ったんです」

「──…っ!そ、っか」

「はい。……円堂さん?」

途端に腕にぎゅうっと力を込められた。少し痛いくらいの抱擁に真剣な声。

「なら豪炎寺はこっち来てから、ずっと辛い気持ちのまま俺と一緒にいたんだな」

「……」

触れ合うたびに嬉しくて、けれど切なさと罪悪感が常に心の片隅にあったのは本当だ。

答えられずにいると、そっと円堂さんの手がシャツの中に滑り込んできて、するすると肌を撫で始める。

「不倫じゃない」

"だから本当の豪炎寺を見せて"と耳元で囁かれて、背筋がぞくぞくした。

「本当の?」

「恋人で奥さんで、人生のパートナーの」

永遠を誓い合い、死ぬまで傍に居られる。そんな関係になれるなんて思ってもみなかった。

「……はい」

返事をした途端、やわらかくベッドに倒されて。
身体中にキスを受けながら、今まで感じた事ない程の幸福感に満たされる。

円堂を好きでいて良い、欲しがって良いのだと。

10年後に来てから初めて、何の躊躇もなく自分から手を伸ばす事が出来た。







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