失ったものは




手の拘束を緩め自由にしてやると、赤く擦れた痕が痛々しい。抵抗の激しさが知れた。

鬼道は虚ろな瞳で自由になった腕を確認し、そのままゆっくりと手で顔を覆ってしまう。

「鬼道…?」

おそるおそる、呼び掛ける。反応はないが、震える肩は明らかに泣いている事を示していた。

「……っ…う、……ぁ…」

ちいさく嗚咽だけが部屋に響く。

どうしたらいいか、わからない。もし、鬼道が鬼道でなくなってしまっていたら。

「きど…」

名前を呼び肩に触れようとすれば、バッと距離を取られ、怒りと憎しみに染まった瞳で睨まれた。赤い瞳に激しい嫌悪の色。

「…っ、触るなっ!」

怯えながらも、まだ鬼道はきちんと"鬼道有人"で。
壊してしまったのではなかったと、場違いにも安心した。

「名前を、呼ぶなっ!触るなっ……貴様とはもう関わりたくない…っ」

「……!」

寄越された視線は、軽蔑と恐怖で満ちている。
次第に醒めて冷静さを取り戻すにつれ、自分のした事の重大さに身体が震えた。



俺は、何てことを。



「最低だ、こんな……許される事じゃ…ない……っ」

そう、許される事じゃない卑劣な行為だ。

「……っすまない」

「すまない…だと…?…ふざ、けるな…っ!」

「……悪かった…」

鬼道から浴びせられる言葉は、何度も繰り返し自分でも思ってきた事で。
もう、ただひたすら謝る事しか出来なかった。

自身を守るように抱き締め、俺から最大限の距離をとりながら、震える声で鬼道が吐き捨てる。

「なぜ、こんな事をした。……っそんなに、俺が嫌いだったか」

「違う、そうじゃない…っ…」

もう辛くて苦しくて、気持ちが抑えきれない。こんな事をして、もう伝えたって拒絶されるとわかっていても、言わずにはいられなかった。


最悪なタイミングでの告白。


「……鬼道が、好きなんだ…っ」

「……なん、だと」


訝しい表情に、蔑んだ瞳。


「っ前から…ずっと好きで…!好きだったんだ…、だから…っ」

縋るような視線の俺を見て、鬼道がくれた言葉は。




「気持ち悪い…っ」




当たり前だと思う。
何回も繰り返し想像した通りなのに、なぜこんなにも自分はショックを受けているのだろう。
胸の痛みがスッと消えた。


ああ、なにも感じなくなった。


「…お前の事を、恋愛対象として見た事など…ただの1度もないっ。これからも、有り得ない!」

「……ああ」

嫌というほど、分かっている。だから、心の奥底に閉じ込めていたのだ。夢と妄想だけに留めていたのに。

「サッカー以外で、もう俺に関わらないでくれ」

「ああ」

「学校でも、この合宿でも、だ…っ」

「わかった」

決別を言い渡されているのに、妙に冷静な自分がいる。まるで、心が凍ってしまったかのようだ。

あれだけ焦がれた鬼道に、嫌悪をぶつけられ絶交を言い渡されているのに、涙も出ない。

「っ試合中でも、俺に触れるな…!」

「ああ、わかった」

言いたいことは全部言ったのだろう。
すまないと繰り返す俺に、もう口を聞くのも汚らわしいとばかりの視線をくれると、鬼道は衣服を手早く身に付け部屋から出ていった。

身体が痛むのか歩き方がぎこちなく、それが余計に痛々しかった。



やや強めにバタンと閉まったドアを見つめたまま、暫くはぼんやりしていた。
鬼道に嫌われて、自分は悲しい筈なのに。もう、よくわからない。

けれど、何もかも失ったという事だけは、理解出来た。全部、失った。
もう鬼道には会えない。合わせる顔がない。

あんな事をされたにも関わらず、鬼道は優しかった。

"サッカー以外"は関わるなと言っていた。俺にサッカーだけは残してくれたのだ。けれど。



もう、出来ない。



自制の効かない体が恐ろしかった。理性の働かない自分が許せなかった。
また鬼道と2人きりになれば、同じ事を繰り返すかもしれない。狂っている、と思った。



こんな自分は、ここにいてはいけない。



淀んだ空気を入れ換えようと窓を開けると、涼しい風が音もなく入ってくる。息を吸い込むと肺まで染みて、さらに冷静になれた。

鬼道にはどれだけ謝っても、償う事など出来ないだろう。ならば、せめて。




鬼道の前から、消える。




無責任だと分かっている。逃げているだけだとも。
こんな時まで自分はずるくて、弱い。

それでも、祈らずにはいられなかった。






(どうか1日も早く、鬼道が俺を忘れられますように)






雲ひとつ無い夜空を見上げながら、流れてもいない星に強く、強く願った。





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