挨拶 朝練の為にどんなに早く登校しても、いつも鬼道は先に来ていた。部室で黙ってデータファイルをみている。 皆が集まるまでの僅かな時間、いつも鬼道と2人きりになった。 「全員分、全て目を通しているのか?」 机でファイルを眺める鬼道の向かいに座り、邪魔にならない程度に話し掛ける。 「ああ、個人のデータを出来るだけ頭に入れて練習したいんでな」 「熱心だな」 頬杖をつきながら一緒にデータファイルを眺める。正直、細かくて全員分など覚えられる気がしない。 鬼道がゴーグルを外し、眉間を指で揉んでいる。朝からそんなに疲れていて、大丈夫なのだろうか? ふと、鬼道がこちらをみて手を伸ばしてきた。 「豪炎寺、睫毛がついている」 「どこだ?」 「取ってやるから、目を閉じろ」 言われた通りに目を閉じる。黙っていると、目尻にやわらかい感触がした。 指じゃ、ない? 「もう取れた、目を開けていいぞ」 「鬼道、今……」 「なんだ?」 「いや、何でもない」 指ではなく、もっと柔らかな……例えば唇のような、感触だった気がする。気のせいだろうか。 鬼道の様子はいつもと変わらないし、きっと自分の勘違いだと、その日はあまり気にしなかった。 けれど翌日も、その翌日も、鬼道に理由を付けては目を瞑らされ、額や頬に触れられた。 多分、間違いなく唇で。 日によって口付けられる場所は違い、いつもふわりと一瞬だけ触れられる。髪だったり、耳元だったりした日もあった。 鬼道にとっては、挨拶みたいなものなのだろうか? 頬にキスなど海外では当たり前だし、すでに何度もされた後なのに今更何だと言われそうで、問い質す機会を逃してしまった。 2週間程、キスの挨拶が続いた朝。 いつもの通りに鬼道に目を閉じるように言われ、何の疑いもなく目を瞑る。 鬼道が椅子から立ち上がり、顔が近づいてくる気配がした。 唇に、された。 すこし長く触れられ、離れるときに軽くリップ音が響く。 びっくりして思わず椅子から立ち上がってしまった。 「き、鬼道っ?」 「何だ?」 「今のは…」 「いつもと変わらないが?」 変わらない? 口にキスしたのに? 突然唇にキスされたのだから、普通なら何をする、と鬼道を激しく責めて拒絶するところなのだ。 けれど、毎日どこかしらにキスをされて、今更唇だからといって騒ぐのもどうか、と思ってしまった。 いや、ここ2週間でそう思う程に、慣らされてしまっていた。 「……」 指で唇に触れながら、これは鬼道にとっては挨拶みたいなものなのだ、と自分に言い聞かせる。 胸を叩く激しい鼓動には、気付かないふりをした。 * 翌日、いつもと同様に鬼道は目を閉じるよう言ってきた。 ただの挨拶だ、気にする事はない。それにたとえ唇にされても、昨日すでに許してしまっているので責める訳にもいかない。 自分の中の挨拶とキスの境界線が、ぼやけてしまっていた。 おそるおそる目を閉じる。心臓がドクドクとうるさい程で、待っている時間がいつもより長く感じる。 はやく、してくれ。 もう緊張でおかしくなりそうだと思った、その時。 ふわと口に柔らかな感触がゆっくりと押し付けられ、軽く開いた唇から舌が差し込まれた。 「…ッ?ん、……く、ん…ぅ」 挨拶なんかじゃない。 いつのまにか後頭部を支えられて、深く口付けられていた。 「…ン…、ん…ぅ、…っ」 何度も上顎を舐められ、舌を絡めとられる。唇の合わせ目から洩れる吐息と音が、更にキスを激しくした。 きつく吸われて、息が苦しい。 「……っ、は…ぁ…、はぁ」 もう息がもたない、という所で漸く唇が離され、息苦しさから解放される。 乱れた呼吸を整えながら鬼道を見れば、濡れた唇を舐める仕草にどきりとした。 「豪炎寺、もう1度だ」 「な…っ?こんな、だめ…だ…っ」 鬼道の赤い瞳に真っ直ぐに射抜かれて、身動きが出来ない。 「悪いが止められない」 「や、め…っ!……ふ…、…っ…」 腕を掴まれ再度強引に唇を重ねられて、もう訳がわからなかった。頭の中は混乱し、抵抗も忘れてただされるがままだ。 どうしてこんな事を? 息苦しくて、じわじわと目に涙が滲む。 「……っ……ん…、…うっ…あ」 「っ、豪炎寺…」 時々小さく自分を呼ぶ鬼道の声が、切なく擦れている。抵抗しない様にと掴まれた腕が、ぎりぎりと痛い。 長い口付けが終わり唇が離れても、鬼道の手はまだずっと腕を掴んだままだった。 「は…ぁ、…鬼道、腕が…痛い」 「…!あぁ、すまない」 気付いていなかったのか、焦って手を離す鬼道は、少し苦しそうな表情をしている。 「鬼道、こんなのはおかしい」 さすがにこれは言わざるを得ない。挨拶の範疇をこえていると、ちゃんと伝えなければ。 「キスは……、本当に好きな相手にするものだ」 「本当に好きな……か。豪炎寺は嫌だったか?」 「こういうのは……だめ、だ、間違ってる」 嫌ではなかった。 けれど、友人同士がする事ではないと思う。 だめだ、と言った時、鬼道の身体が微かに揺れた。一瞬泣きそうな顔をした鬼道が、それを誤魔化すように微笑んでこちらに視線を向ける。 「そうか、すまなかったな」 それ以降、鬼道はもうこちらに視線をくれなかった。手元のファイルにずっと集中して、言葉も一言も発しない。 その日は他の部員達が来るまで、気まずい空気は払拭出来なかった。 * 翌朝、俺は部室に入るのを躊躇してドアの前に暫く立っていた。 昨日の事もあり、鬼道とは未だギクシャクした関係のままだ。また、あんなに重たい空気の中で、誰かが来るまで2人きりなのかと思うとため息が洩れた。 考えても仕方がないと、意を決してドアノブを回すと、ガチッと途中で音がしてそれ以上回らない。鍵がかかっている。 まだ来ていないのか? 今まで1度だって居なかった事はないのに。確認のため再度ノブを回しても、やはり冷たい金属の扉は開く気配がない。 鬼道は具合でも悪くして休みなのだろうか。 仕方なく職員室まで鍵を貰いに行き、自分で部室を開ける。 その日、鬼道は朝練に間に合う様に普通に登校し、何事もなかったように練習に参加していた。 本当に何もなかった、ように。 鬼道はもう、朝早く来なくなった。 → |