逃げ惑う光は果して夢か現か、
※義兄弟パロの続き。
――誰よりも尊敬しとった『兄貴』がいた。
『兄貴』と言っても、血の繋がりはない。俺が九歳の時、俺の母親と『兄貴』の父親が再婚して出来た兄弟や。
母親との二人暮らしが長かった俺にとって、新しい家族が増えるってのはすごい変化やった。
そん時にはもう、再婚とは何かなんとなく分かっとったから、上手くやっていけるやろか、どんな人なんやろか……なんて、幼いながらに俺は色々考えた。
期待より不安が大きかったことは言うまでもない。
やって当然やろ? いきなり父親と兄貴が出来たんやから。戸惑いを隠しきれんかった。
でも俺が心配する必要なんか全くのうて、父親と兄貴は幼い俺にすごい優しかった。二人とも、俺をホンマの弟みたいに接してくれた。特に兄貴は、年が離れてるせいもあってか、俺のことをめちゃくちゃ可愛いがってくれた。勉強で分からんとこがあったら丁寧に教えてくれたし、俺のなんでもない話を楽しそうに聞いてくれた。
俺は……兄貴が好きやった。
兄貴が好きやったし、尊敬もしてた。兄貴みたいになりたいとも思た。ホンマに兄貴は、尊敬するに足る人物やったと思う。
――そう、『やった』んや。
これはあくまで過去の話。
今の印象はまるでちゃう。
今の俺は……
兄貴が大嫌いやった。
逃げ惑う光は果して夢か現か、
「――ただいま……」
返ってくんのは室内に響いた自分の声だけで、他に何の反応もあらへん。
そりゃそうや。今はテスト期間中で帰りが早いもんやから、いつもは俺に『お帰り』て出迎えてくれる母さんも仕事でおらへん。
家に誰もおらんのは知ってたけど、癖でつい口に出てしもた。結果的に独り言になってしもたけど、一人なんやから別にえぇやろ。
靴を脱いだら、陰ってほんの少し暗い廊下を歩く。
季節は冬。外と比べたら風がのうてまだマシやけど、冷気が室内に立ち込めてて寒いモンは寒い。足の裏から伝わる冷たさが俺の体を震わせた。
水の冷たさに顔をしかめつつ、洗面台で手洗いとうがいを済ませた後、突き当たりの部屋――リビング兼ダイニングで使てる部屋に入ると、テストのお陰で重さがいつもの三分の一ぐらいになっとる鞄をソファーに投げ捨てて。バフッと音を立てて、鞄がソファーに沈んだ。
流し台に置いとるコップを手にとれば、冷蔵庫に置いてある、ペットボトルに入ったお茶を注ぐ。茶色の液体がコップ八分目まで満たした。
お茶を啜るように飲みながら、俺はダイニングテーブルに移動する。その上には母さんの字で『あっためて食べてね』の手紙と共に、ミートソースのスパゲティーがラップに包まれて置いとった。
コップを机に置いて、母さんの言う通り……ちゅーか、あっためた方が美味しいからスパゲティーの皿を電子レンジに入れた。ダイヤルを回して1分30秒に設定し、温め開始ボタンを押す。電子レンジの中の皿が、クルクルと回り始めた。
その間に、健康的な面で考えたら暖房はあんまり使いたないんやけど、この寒さに耐え切れんくて、俺はエアコンをつける。そんでなんか部屋が淋しかったからテレビつけて適当にリモコンを回した。こないな時間に滅多におらんから、番組内容なんか、なんも分からへん。これかなて思たニュース番組をそのままにして、俺は一端自分の部屋に行って着替えを済ませる。流石に学生服のまんま、ミートスパゲティーを食べる気にはなられへん。動きやすい部屋着になって戻ってくれば、レンジの温めは終了しとって、カウントは0になってた。
レンジの中を開けばスパゲティーはしっかりあっためられとった。皿からその熱がしっかり伝わる。
皿とフォークを手にとり、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした俺は、軽く手を合わせてから、スパゲティーをフォークに絡めてスルスルと食べ始めた。
テーブルと、セットで並べられとる四つの椅子。俺の隣に一つと向かいに二つ。向かい二つは俺の正面が母さんで、斜め前に父さんがいつも座る。俺も同じで、みんな所定の位置に座ってご飯を食べとった。
でも、この中で一つだけ使われんようになった椅子がある。それは俺の隣。使われんからって、母さんのエプロン掛けになっとった。
使われんようになった椅子は『兄貴』のモンやった。
兄貴は、大学進学と共に一人暮らしを始めて、この家にはおらん。その理由は同じ関西の大学やけど、家から通うんが大変なんと、理系の学科に進んだもんやから研究やらなんやらで、大学の近くにおった方が都合がえぇやろうっことやった。幸いなことにうちは裕福で、兄貴の我が儘はあっさり通った。
でも、家から通おうと思たら出来た筈や。あえて一人暮らしっちゅー、大変な道を選んだ。
要するに――兄貴は俺から逃げたんや。自分のしでかしたことから逃げよった。
――スパゲティーを口にして思う。
やっぱり出来立てやないから、麺はパサパサしとった。スルッて喉を通らんと、なんか引っ掛かる。それでも別に食べられへんワケやないから、お茶を間に挟んで、綺麗にスパゲティーをさらえた。フォークと一緒に流し台へ持ってってコップだけになった机で、勉強をしようと俺は準備を始める。
普段からテスト前の勉強は欠かさん俺やけど、三年になってから、その勉強の量は倍になったと思う。テニス部を引退した、二学期からは特に。
なんせ定期テストは内申に関わる大事なテストや。失敗するワケにはいかへん。
現在、三年最後の学年末テストの真っ只中。これで三学期の、後期試験に関わる成績が決まってまうから、バッチリ決めてまわなアカン。俺は併願で私立を滑り止め、後期試験の公立を本命にと考えてた。私立の方は合格ラインを狙って決めたから大丈夫やと思うけど、やっぱり合格したいんは本命の公立校。
せやから、受験勉強の方も欠かされへん。
まぁ今日に関しては試験用勉強を優先させるけど、毎日勉強してても落ち着かへん。これで大丈夫なんかなて、思てしまう。それでも勉強せんよりはマシやから、俺はとりあえず勉強に打ち込むって感じやった。
自分の部屋から教科書の内容に沿った参考書持ってきて、机の上に広げた。自分の部屋でやるより、ここでやった方がはかどる。せやから俺は好んでこの部屋でしてた。
勉強を始めた時点で、俺はテレビの電源を切る。別に点いてるからって見ぃひんし、テレビの音は集中力が途切れる要因になるかもしれへん。要するに無駄や。
テレビが消えたことで、一気に静かになった部屋で、母さんが帰ってくるまでの間、俺は試験勉強に精を出した。
俺はこれまで、努力することでなんとかやってきた。
全国大会の常連校である強豪テニス部でレギュラーを勝ち取り、部長にまで選ばれんも、全部、努力のお陰や。俺には、特別な才能なんかないから。
努力は、報われる。
その言葉を信じて、ずっとやってきた。
でも努力すればする程、いつも『不安』を感じてまう。ホンマにこれで大丈夫なんかとか、上手いことやれるやろかとか、不安がいっぱいある。その不安を解消する為に、俺はいつも無茶してきた。テニスに打ち込んでた時は、練習量を倍以上に増やした。
そんで今は――
「クーちゃん、大丈夫? なんや疲れとるみたいやけど……」
睡眠時間を削って、勉強に打ち込んどった。
せやないと落ち着かへん。
「あぁ……うん、平気平気。ちょっと寝不足なだけや。そない心配せんでも大丈夫」
母さんとの夕食中。父さんはいつも帰りが遅いから、休みの日以外は母さんと二人で食べる。
ついボーッとして箸を止めてしもたら、それを不審がった母さんにそう聞かれてしもた。
母さんを心配させる訳にはいかへん。俺は曖昧な笑みと、適当なことを言うてごまかす。
「そうなん? そないに根詰めんでも、クーちゃんなら大丈夫な気ぃするけどなぁ……あ、これは無責任か」
そない言うて、母さんは苦笑いを浮かべる。俺も反応に困って、笑うしかなかった。
「今日のテストどないやったん? 上手いこといった?」
今日は学年末テストが最終日。三日に渡るテストが終わり、一息入れたい……ところやけど、そういうワケにはいかんな。
「うん、まぁまぁてトコ……かなぁ? でも数学、絶対一問間違っとるわ。後から気ぃ付いて、ちょっとショックやった」
「えぇやないの、一問ぐらい。たいしたことないわ。クーちゃん……よう頑張っとったモンなぁ。よかったな」
まぁまぁて言うてみたけど、試験範囲を完璧と言えるまでにやったから、かなり出来た方やと思う。スラスラとペンが動いた。あんま期待せん方がえぇと思うけど、多分かなりえぇ。
「受験までは気ぃ抜かれへんけどな」
まだまだ……先は長い。最後まで、油断は出来ひんやろう。
「なぁ……今さらやねんけどな、勉強に不安があるんやったら、カテキョーか個人レッスンの塾にでも行ってみる? 母さん、全然構へんよ」
「えぇよ、そんなん。これまでやってこれた訳やし……今さら過ぎるわ」
母さんの申し出は嬉しいけど、ホンマに今さら過ぎる。別に学力に不安があるわけやないから、家庭教師に見てもろたり、塾へ通ても、この不安な気持ちが変わるとは思えんかった。
「あ……でもな、母さん、一人めっちゃえぇカテキョーの人知ってるんよ。そん人に受験までの間、見てもらわん?」
「えぇてえぇて。俺一人でも大丈夫」
思い出したように言うた母さんに、俺は断りを入れ、机に並ぶみそ汁を啜った。熱い液体が喉を通る。寒い日にはやっぱり暖かいモンやなと俺に思わせた。
「……そう? クーちゃんがそう言うんやったらえぇんやけど……」
母さんはまだブツブツ言ってたけど、俺が適当に話題を逸らしたら、そっちに乗っかってきて、この話は終わった。
ご飯を食べ終わった俺は、母さんにごちそうさまを言うて、自分の部屋に篭ったら教材を広げて勉強に打ち込んだ。