――夢やったらえぇのに……って、何回思ったことやろうか。



 でも、夢やない。
 手首に残った傷も、腰の鈍い痛みも、鳴きすぎて枯れた喉も全部……全部、きっちり俺の身体と記憶に残ってる。

 カーテンから差し込み光が、俺に朝を知らせてくれて。目ぇ覚ました時、目に映ったんは見慣れへん天井で、あぁ、昨日謙也にヤられたんや……て、はっきり思い出した。

 身体に掛けられているシーツを、直に感じることから、特に確かめんでも俺は真っ裸間違いないんやろう。
 かろうじて着てたシャツもどこへいったんやろか……。その代わり、言うたら変やけど、手首に掛けられとった手錠はどっかに消えとった。

 自由になった俺は身体を起こし、辺りを見渡す。

 謙也の姿は……どこにもない。

 俺を昨日、身勝手な理由で犯した男の姿はない。

 別の部屋に?

 例えおったとしても、俺は顔も見たなかった。顔を見たら多分、昨日の悪夢のような出来事を思い出しそうで、ごっつい嫌やった。それに今度こそ本気で、謙也を殴ってしまいそうや。

 ホンマに……謙也には近付いたらアカンかったなと、今頃後悔し始めた。
 あの時この警告を真に受けて、家で大人しゅうしてたら、こんなことには……。

 ――て、誰や?

 誰が……俺にこないな警告をしたんや?

 ユウジ?
 財前?

 いや、ちゃう……

 あの時、結婚式場で、俺にそう警告したんは……

『――白石……あんま謙也に近付くんやないで』

 忍足 侑士。
 謙也の、従兄弟くんや……。

 忍足くんは全部知ってたんや。
 謙也が俺のことを好きやって。
 全部……
 全部……。

 そう考えたら、結婚式ん時忍足くんが言うてた言葉の意味が、すべて理解出来た。
 納得、できるワケがない……。
 忍足くんが、俺が聞いても理由を話さんかったワケが、ようやく分かった。
 おそらく理由を話してくれたとしても、俺が笑い飛ばすか、冗談やと決め付けて真に受けへんと思たからやろう。

 やって、普通に考えてみて……おかしい。

 とてもやないけど信じたない、現実やった。

 でも……忍足くんはすべての事情を知ってた。全部分かってたからこそ、俺に警告してくれてたんや。

 せめて話して欲しかった。
 話してくれてたら、こんなことには……ならんかったかも知れん。
 俺は忍足くんを恨まずにはおれんかった。

 身勝手。
 言われたところで、本気にはせぇへんかったやろな。
 でも謙也を異常やと感じとる忍足くんに、俺は会いたいと思た。

 そう思ても……連絡先が分からへん。

 今の現状に絶望し、俺は深いため息を吐いた。

 ふと――視線を逸らせば、目に飛び込んできたんはベッドサイドに置かれた……水の入ったペットボトル。

 誰が置いたなんか聞かんでも分かるけど、喉が乾いてた俺は腹立つのを我慢して、そのペットボトルに手を伸ばした。
 口にしてみたそれは水やのうて、スポーツドリンクやった。半分ぐらい飲んだとこで口を離し、元の場所に戻す。

 その近くには、新品と思しき下着とワイシャツとズボンが、畳んで置いてあって、変に気ぃ遣われてるのが余計勘に障った。 水とおんなじで、いつまでも裸でいるワケにはいかへん。俺はこの謙也の気遣いを、受けるしかない状況に立たされとった。

 ここでボーッとしてても、何も始まらへん。とりあえず俺は、この嫌な空気から抜け出したいと思た。

 昨日は、暗くてよう見えへんかったけど、ここは……寝室や。言うまでもなく、友香里と謙也の。
 置いてある家具と俺が寝とるダブルベッドがそれを物語っとる。

 あんま考えたないけど、友香里が謙也にヤったかも知れへん場所や。そこで嫌になるぐらいの愛を囁かれながら、俺は謙也にヤられた。

 なんやねん、コレは。
 おかしすぎて、涙が出てきそうやわ。

 友香里の、三面鏡やろか。確か母さんが花嫁道具かなんかで、友香里にやったヤツや。
 俯き加減やった顔を上げた時、それがちょっと開いとって俺の姿が写る。その姿を見て、俺は驚愕した。

 よく見ようとして、俺は三面鏡に近付く。

 首を中心にして、花が咲いたみたいに散った鬱血痕。
 俺が気ぃ失っとる内に謙也が付けたんやろう。一つ二つならまだ分かるけど、尋常やない数に俺は目眩がした。

 ――体中、あらゆるとこにキスマークが付けられとる。

 首筋に付いたキスマークを指で触りながら、俺は鏡に写る自分を見た。
 当たり前やけど、擦っても取れる気配はない。

 冗談やろ……。

 友香里に、合わす顔がますますあらへん……。

 隠せない痕跡を目の当たりにして、俺はさらに絶望した。

 グッと、無意識に作られていた拳に力が入る。

 俺を……どこまで陥れたら気が済むねん。

 気を失いそうになってまうのを必死に堪えて、俺はフラつく足を運ぶ。

 ――とにかく、この家を出よ。

 それが、一番えぇことのように思えた。
 これ以上ここにおったら、冷静な判断が出来んで頭おかしくなってまいそうや。今でも充分……おかしなっとるけどな。

 アイツの気遣いを受けとんのは、死ぬ程、ホンマに癪に障って嫌やけど、ここを出る為にはしゃあない。
 下着に手を伸ばして、せっせと服を着はじめた。
 はよここから『脱出』したいっちゅー気持ちが、俺を無駄に急かした。

 首筋のキスマークが見えんように、ワイシャツのボタンはきっちり一番上まで止める。

 着替え終わった俺は、部屋の隅に置かれとった自分の鞄を手に取ると、素早く寝室を出た。

 パタンと閉まるドア。
 人の……気配がない。
 ホンマに謙也はおらんみたいやった。

 なんでおらんのかとかそんなんは、かなりどうでもよくて。
 廊下を渡り、まるで空き巣みたいな(空き巣なんかもちろんしたことないけど)動きで、謙也の家を飛び出した。

 謙也の家から解放されて空気は軽くなった筈やのに、外の空気も、変わらず重苦しかった。









 謙也にヤられて、三日が経った。

 何も言わんと出ていったモンやから、その時点でメールか、電話か、直接訪ねてくるかなんらかの方法で、アクションを起こしてくると思ったんやけど……なんもなかった。

 謙也からの接触はあれからなんもない。

 平和……?
 いや、ありえへん。
 俺の心は、常にざわめいとった。
 落ち着かへん。

 肉体的にもあん時の余韻がまだ残っとるし、精神的にも色々怠かった。

 でもそれを仕事で出す訳にはいかんから、顔には絶対出せへんし、態度にも出さへん。

 せやから俺はいつも通りの動作で放課後、課題で集めたプリントの確認を職員室でしとった。答え合わせは授業中にさせたから、きちんと提出出来とるかそうやないかの確認だけ。
 『白石』っちゅーサインを、赤ペンでプリントの上らへんにどんどん書き込んでく。その際、授業をよう聞いて、解説なんかを詳しく書いとる子なんかにはコメントを残しといたる。成績にプラスアルファって訳やないけど、ちょっと書いといたったら生徒はやる気出すやろう。そんな理由から俺は続けとった。
 もはや流れ作業と呼べる確認が終わったら、出席簿広げてに提出出来とる生徒のとこには丸つけて。課題確認の、作業が一通り完了した。

 その後は次の授業の内容を教科書見ながらノートに書き出して、生徒に写させる為の、黒板板書用に使う内容を作った。

 そんであっちゅー間に時刻は6時。

 今日は火曜で、テニス部が休みの曜日や。せやから、今日は部活に顔出しする必要はあらへん。

 特に用事がないんと体が怠いことから、俺はさっさとノートやら教科書、USBメモリなんかを鞄にしもて。職員室におる先生方に『お先失礼します』なんて、適当な挨拶交わして俺は職員室を出た。


 ――体が……だるい。
 ホンマにだるい。

 目頭を軽く押さえながら、廊下を歩く。

 生徒とすれ違う度に『さようなら』て言われるからこっちも返すけど、上手いこと笑顔が作れん。

 そんな調子で廊下を歩いとったけど、校門が近付くにつれ、生徒(特に女子)がやけに騒いどんのを感じた。
 流石に無関心ではおれんで、なんやろうて思いながら、俺は生徒の様子をうかごうた。

「な……っ」

 校門に辿り着いた時、俺はその理由を知ることとなる。

「――白石!」

 笑顔で、ヒラヒラと俺に向かって手を振る男。俺の心をざわめかす、張本人が――そこにおった。

 そいつは自分の周りを囲むようにしておる女の子らに、ごめんなごめんなて謝りながら移動して、俺の目の前に現れた。

 謙也やった。
 謙也のヤツが――そこにおった。

「白石のこと待ってたんやで!」

 最初は呆気にとられてなんも言えんかったけど、コイツが俺に何したんか思い出して、

「お前……っ、何しにきてん……っ!」

 鋭く睨みつけた。

「せやから言うたやん。白石に会いにきたって」

 ニコッと白い歯を見せる男。

 ……腹立たしい。

「どの面下げて俺に会いにきてんっ!」

 声を荒げ、謙也に掴みかかろうと手ぇ伸ばした時、

「白石先生の知り合いなん!?」

 女子生徒の声がして、俺はここが学校やっちゅーことを思い出した。
 興味津々、といった感じに弾む女子生徒の声。他の女子生徒も、キャーキャーおんなじように後ろで騒いどる。

 殴ってやりたい……けど、そういうワケにはいかんかった。

 伸ばした手を、ゆっくり下ろす。おさまらない感情が俺に拳を作らせた。

「……あぁ、せやで。コイツは俺の中学ん時の同級生やねん。ちょっと話さなあかんことあるから、これで失礼するわ。おぉ、みんな気ぃ付けて帰りや」

 まくし立てるようにそう言うて、俺は謙也についてこいと目で語った。それが謙也に伝わったんか、

「そういうワケやから堪忍な」

 とか言うて、大人しく俺についてきた。
 女子生徒は謙也にばいばーいとか手ぇ振って、やっぱりキャーキャー言うてる。
 そんな声を背後に、俺はスタスタと歩き校門を抜けた。

 ――学校にくるとか……ありえへん。

 一刻も早く、ここから。
 自然と、歩く速度がはやまった。

「なぁ白石、ちょっと歩くの早ない?」

 謙也と話そうにも、うちの学校の制服着とる子がちらついて、どうにも……えぇ場所があらへん。

「白石……なぁ、」
「ちょ……っ」

 どっかに、えぇ場所はないやろか。
 そない考えながら移動しとったら、ガシッと腕を掴まれて。

 強制的に足を止めさせられた。

「離せやっ」

 謙也を睨みつけ、振りほどこうとして腕をあちこちに振るけど、謙也はもちろん離してくれへん。








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