啓蟄 …少し遅くなったか。 慣れない仕事を始めてから数日、近辺を散策してから戻ろうと思ったが思いの外のんびりとしてしまった。三月に入り暦の上では春、日は伸びてきたものの辺りは既に暗い。とはいえ京と違い電気なる物がある此方はぽつりぽつりと外灯が並び立ち、整備の行き届いた道が照らされている為視界は困らない。辿り着いた集合住宅の入口で千紗殿から貰った腕時計を見る。文字盤の短い針は八を指していた。 ◆ 開錠して玄関扉を開ければ暖房のせいか外気より暖かで、居間に入る前に厚手の上着を脱いでしまう。 明かりは点いているというのに、やけに静かで物音がない。静かに居間に足を踏み入れると、炬燵の机に上半身を預け千紗殿が眠っていた。 自らの腕を枕にして無防備な顔で規則正しい寝息をたてている。近付いてもそれは乱れる事がなく、初めて見る彼女の寝顔に頬が緩んだ。 共に暮らしてはいるが、私達の関係は拾われた者とその恩人に過ぎない。寝所も別々の部屋。だから、少女の様に眠る姿がとても新鮮だ。仕事で疲れた心が癒される心地に目を細める。 ―――清らかな少女との恋に破れて半ば自棄になっていた私が何の因果か、その少女の世界へと飛ばされてもう半年以上経ったか。もうその人を探す気は毛頭ないが、この胸に空いた穴は大きく。二度と塞がらないと……塞いでほしくないとさえ思っていた。この虚無感と痛みを抱いて独り、生きていくのだと。 それなのに、私を拾った千紗殿という人は、私と出会う少し前に恋人に逃げられ、心も打たれ弱くすぐに弱音を吐き、どこか抜けていて…それでも世間や人と真摯に向き合う事を止めない執着の強い酷く人間くさい女性で。その喜怒哀楽の激しい生活を間近で見ているうち、傍で支えたい、などと……思う自分に驚いた。 知らぬ間に、少しずつ心の隙間を埋められていたんだ。満たされるまで行かずとも、確実に痛みは減っていた。 何でもない彼女の寝顔が堪らなく愛おしく思えてしまう程に…。 悪戯心に駆られ一度だけ、柔らかな髪を撫でる。身じろいだのを確認して名残惜しくも手を引いた。 (先のバレンタインで君がくれたのは感謝だったけれど……もし、君にも私を愛する想いがあったなら、私は君と―――) 「ん…、あ、れ……?」 「…ふふ、おはよう」 「いつの間にか寝ちゃってました。…おかえりなさい、友雅さん」 眠たげに目を擦りながらも優しく微笑んでくれる君と、始まる事になっても構わない…私を守ってくれた君を、今度は私が守りたい。 ――そう告げたら、君はどんな顔をして私を見るのだろうね。 「ただいま、千紗殿」 ホワイトデーまで、あと少し。 |