くやまぬゆめを


「そんな薄着だと風邪引くぞ」
「賈ク殿…」

執務室に突然灯りが点ったかと思えば、目の前に賈ク殿がいた。
読書を始めたのはまだ日が高くあったのに、いつの間にか外はうす暗くなっていたみたいだ。

(夢中になって読んでいて気付かなかったな…。)

「すまない、ありがとう」
「構わんが…暖かくなってきたとはいえ、何か羽織った方がいいぞ」
「うーん、鍛練中は暑いぐらいだったけど……くしゅっ」
「あははあ、そらみたことか!」
「…いい大人が、指さして笑うことないじゃないか」

言った通りになったのが余程面白かったのか、大笑いされたが…こちらは大変面白くない。
上下とも動きやすい簡素な薄手の服。女らしくはないが、鍛錬の時は丁度いい。
正午頃、徐晃将軍たちと鍛練している時はこの恰好で暑い位だったのに。
……だが確かに、日が沈んだ今では少し肌寒い気もする。

「いいか?今ぐらいは花冷えの頃だから―」
「ぶふっ」
「…なんだよ」
「か、賈ク殿に“花冷え”って言葉、似合わないなぁ」

賈ク殿の口から、そんな趣きのある言葉が出るとは思わなかった。
思わず吹き出してし……しまった、賈ク殿の笑みが怖い。


「ほう?次の戦は俺の切札を珠美殿にしてやろうなぁ」

―彼の切札とはつまり、一番危ない場所に配置される部隊である。

「すみませんでした」

気付いたら床に伏せて許しを乞いていた。喜べない辺り、私も武官としてまだまだかな…。
ちら、と賈ク殿を見やると、先ほど私が読んでいた竹簡を手に取って、顎髭を擦りつつ首を傾げていた。
私の謝罪は無視なのか、賈ク殿。切り札の件は冗談だと信じて、体を起こし椅子に座り直した。

「こりゃあ…兵法書じゃないか。珠美殿は兵法に興味があるのか?」
「ん、まぁ…ちょっとね」

将軍の中には兵法をかじる人間もいる。かの関羽殿も兵法に通じていると聞く。
ただ私の場合、文字の読み書きはこの軍に仕官してから学んだもので、元々の教養はあまりない。
そのため、兵法書を読み解くにも時間がかかる…。
それでも理解したいのはやはり、次からの戦の為…だったら良かったのだが、ちょっと違う。

「なんでまた急に?」
「や、役に…立つかなぁと…」
「ふーむ…だが半端に知識をつけて誤った使い方をされても、俺たち軍師は困るんだが」
「……すまない。やはり、無駄だろうか」
「まっ、無駄ではないが、ね。この書はちょっとあんたには早いんじゃないか?」

先ほど読んでいたのは曹操殿が編纂されたという孫子。
兵法を学びたい、と殿にこぼしたら大量の書簡を下さった、その中にあったものだ。
有用性の高い兵法書と聞いたから、間違いないと思っていたのだが…。


「これは勢篇だろ。その前の形篇まではもう読んだのか?」
「へ?」
「…やっぱりな。孫子は十三篇あるから、一から読まんと駄目だぞ」
「そ、そうだったのかっ…」

読んでいて違和感がなかったか、といえば嘘になるが…まさかそんな初歩的な失敗をしていたとは、恥ずかしい…。
先ほどまでの肌寒さはどこへやら、顔から火が出そうだ。暑い。
そんな私を余所に、賈ク殿はまた何やら考えているようで、また髭を弄っている。

「そうだ、ちょっと待ってろ。あーでもその前に何か羽織ってなよ?」

何か閃いたのか、そそくさと部屋を出ていってしまった。
ああいう時の賈ク殿は行動が早いなぁ…。
残された私は言いつけ通り厚手の衣を羽織って賈ク殿を待っていた。

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