「とうとう司馬懿様のところからいなくなったのね、あの子」
「それがお暇を出されたんじゃないんですって。曹丕様のところへ異動になったらしいのよ」
「うそ、なんであんな子が」
「それが曹丕様直々のご指名らしいわよ。一体どんな手を使ったんだか……大人しそうな顔して怖いわねぇ」
「嫌だわ、汚らわしい」

 汚らわしいのは、貴様らのその考えだ。

 司馬懿は思うように進まぬ仕事に焦れ、小さく舌打ちをする。
 廊下を歩く女官の声はそう大きいわけでもなかったが、悪口の独特な音域は耳に飛び込みやすく、加えて今日の司馬懿はまったく集中力が無い。それもこれも全てなまえがいないせいなのだが、それを認めることにはまだ抵抗があり、司馬懿は苛立ちを朝からずっと持て余していた。

 そして当然そのぶつけ先は、なまえの後任となる女官に嫌でも向かう。彼女は自ら司馬懿付きになることを志願したらしいが、軍師という人間の忙しさを少しも理解していないようだった。

「遅い! それしきのことにまだかかっているのか」
「は、はい、申し訳ありません……」
「それからこっちは資料が足りぬぞ、まったく使えぬ凡愚めが」
「はい! 今すぐ!」

 朝からずっとこの調子で叱り続けているので、彼女は常に半泣き状態だった。だが、何も苛立った司馬懿が難癖をつけて叱っているというわけでもない。本当に何もかも、なまえがいたときとはまるで違うのだ。彼女は初め、しなを作って司馬懿に取り入ろうとしていたようだったが、今ではそんな余裕もなくなったらしい。じきに辞めたいと言い出すのが目に見えていた。

「こ、こちらでしょうか?」
「……もうよい、ここまで使えぬとはな。自分で探したほうが早いわ。貴様は茶でも淹れていろ」
「申し訳ありません……」

 逃げるように去っていく女官。その背に追い打ちをかけるように大きなため息をつく。すると不意に廊下から、司馬懿の望んでいた声が聞こえてきた。

「司馬懿様、」
「入れ」

 なまえだ。なまえが戻ってきたのだ。
 司馬懿は先ほどまでの不機嫌をすっかり忘れ、戸を開けて中に入ってきたなまえが話し出すよりも先に口を開く。

「ふん、もう追い出されたか。貴様のような凡愚でも、まったく知らぬ間柄と言うわけでもない。情けをかけてもう一度置いてやってもよいぞ」
「え、いや、私はこれを」

 なまえは二、三度まばたきをすると、おずおずと竹簡を差し出す。

「曹丕様から、司馬懿様にお渡しするようにと」

 司馬懿と曹丕は側近と主人という関係。今まで司馬懿付きだったなまえが曹丕の元へよく使い走りさせられていたように、もちろんその逆の用事だってたくさんある。そんな簡単なことにも気が付かないで、てっきりなまえが自分の元に戻ってきたと勘違いした司馬懿は、なまえの言葉を聞くなりさっと顔を赤らめた。

「そ、そこへ置いておけ馬鹿者めが! なまえ、曹丕殿に迷惑をかけていないだろうな? もしも貴様が粗相すれば、この私の教育がなっていないと思われるではないか!」
「はい、気を付けます」
「当然だ。……で、どうなのだ、そちらでの仕事は」

 なまえのことだからどうせ黙々と仕事を片付けているのだろうが、主が変われば慣れぬこともまだあるだろう。加えて一応昇格した形になるなまえは、今まで以上に嫉妬と羨望の眼差しに晒されているはず。
 司馬懿はじとりとした目つきでなまえを観察したが、ひとまずどこも濡れていないし怪我もしていなさそうだった。

「仕事は相変わらず忙しいですが、精一杯やっています」
「曹丕殿は、貴様の仕事に満足しておられるのか」
「ええ、今のところは」

 粗相されたら迷惑だ、と言いつつ、いっそ何か大きな失敗をしでかしてしまえ、とも思う。そうして曹丕の所から追い出されれば、またなまえはここに戻って来るだろう。

 そこまで考えて、ふと司馬懿は疑問に思った。なぜ自分はそこまでこの娘に拘るのか。
確かに仕事はできるが、絶対になまえでなければならないということはない。他の女官だって厳しく指導し続ければ、それなりに使い物になるはずだった。

「ふん、自己評価だけは高いようでかなわんな」
「まぁ、自惚れかもしれませんが……曹丕様は褒めてくださるのです」
「褒める?」
「大げさにではありませんが、ぼそりと。良い出来だと言っていただけると、私としてもとてもやりがいがあるのです」

 そう言ったなまえはふわりと、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。普段は控えめに笑ってばかりの彼女だから、そんな顔を見るのは初めてで思わず見入ってしまう。そして確かに自分は彼女をろくに褒めたことが無かったな、と胸の内で悔いるように呟いたが、口をついて出てくるのは情けないことにいつもの嫌味ばかりだった。

「……なるほど、流石に曹丕殿は下の者の扱いが上手いようだな。豚もおだてりゃなんとやら、というわけか」
「そう、なのでしょうか……」
「いちいち真に受けて浮かれておれば、他の者に足元をすくわれるぞ。これだから策を知らぬ凡愚というものは」

 はい、気を引き締めていきます。

 いつものなまえならきっとそう返していたはずだった。
 しかし今日の彼女はわかりやすく表情を曇らせ、肩を落とし俯く。

「……はい」

 それでは失礼します、と消え入りそうな声で告げると、驚いている司馬懿に一礼して部屋を出て行った。

「なまえ……?」
「司馬懿様、お茶が」
「あぁ、」

 彼女にあんな顔をさせたかったわけではなかった。ただ、曹丕に褒められ嬉しそうにしているなまえが面白くなくて、あんな言い方をしてしまっただけにすぎないのだ。だが、あの様子では彼女はもう、自分の元には戻ってこないかもしれない。

「熱っ! こんなもの飲めるか!貴様は茶すら満足に淹れられぬか!」
「ひ、ひいっ、お許しを! すぐに淹れなおしてきますので……!」

 やけどした舌先がじんじん痛むのを感じながら、司馬懿は先ほどのなまえの表情を今一度思い出していた。


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