「なまえか、入れ」

 廊下から声をかけると、曹丕は声でわかったのかなまえを言い当てた。司馬懿はいわゆる曹丕の側近なので、その傍にいるなまえのこともおのずと知られているのだろう。
 失礼します、と戸を開けて一礼をし、司馬懿から預かっていた竹簡を彼に手渡した。相変わらず眉間にしわが寄っており、どこか近寄りがたい雰囲気の彼だが、嫌味も含めて無駄なことを言わない彼はむしろなまえにとってありがたい。
 わざわざこちらから急ぎだと伝えるまでもなく曹丕はすぐに中をあらため、ふむ……と唸った。

「では、私はこれで失礼いたします」

 なにやら難しい内容なのだろうか。次期魏王ともなると、さすがに抱える問題は並大抵ではないらしい。とはいえなまえの仕事は彼に竹簡を手渡した時点で完了しているので、これ以上ここにいても仕方がない。

 なまえにはなまえの出来ることを。
 そう思って退室しようとしたなまえの背に、待てと短く制止の声がかけられた。

「はい……?」
「この仕事を今片付けてしまうから、しばしここで待っていろ」
「でも、」
「仲達は急ぎで目を通せと言わなかったか?なら、当然仕上げるのも急ぐべきだろう」
「そうですが……」

 なぜそれを知っているのだ、と思ったが、内容を見た曹丕が言うのだから”急ぎ”というのは本当なのだろう。しかし司馬懿は渡したらすぐ戻って来いとも言った。一体どうするべきか……。
 なまえはすっかり困ってしまって曹丕を見つめたが、やはり彼に戻りますとは言えない。立場的にも、なまえの性格的にも、だ。「では、その間何かお手伝いできることは……?」後で司馬懿には怒られるだろうが、我慢するしかないと思った。

「ほう、ではこちらを頼む」
「はい、わかりました」

 彼の視線の先には、司馬懿に負けず劣らず山積みになった竹簡。その山の中から、曹丕でなくてもできる資料作りや細かな計算、侵攻予定先の地形図などを探し出し、順に書き上げ整理していく。若干良いように使われている気がしないでもないが、黙って曹丕を待つのも手持無沙汰ではあるし、もともと仕事は嫌いではない。いつの間にか目の前の作業に没頭していたなまえは少しも時間を気にすることなく、黙々と彼の仕事を片付けていた。
 要するに、司馬懿のことなどすっかり失念していたのである。

「曹丕殿、」
「仲達か、入れ」

 そしてその声を聞き、姿を見て、ようやくなまえは「あ……」と情けない声をあげる。いつにもまして不機嫌そうな司馬懿は明らかに怒っているようだったし、机に向かっているなまえを見るなりどこか呆れ果てたようでもあった。

「どこで油を売っているのかと思えば、よほど貴様は仕事が好きらしいな。自分の分すら終わっておらぬというのに」
「あ、あの、これは……」
「一体いつから曹丕殿付きに昇格したのだ?ん?」
「……まぁそういじめてやるな。私が引き止めたのだ」

 救いを求めるように元凶となった曹丕へ視線を向ければ、彼は口元を歪め、一応なまえを庇う。
 
 もしかして笑ってる?
 冷笑を浮かべた曹丕を見ることはあってもごく普通に笑う彼が珍しく、なまえは一瞬理解するのが遅れた。

「お前からの竹簡を片付けてしまおうと思ってな、待たせる間にどうせだからと少し手伝わせていただけだ」
「……それはそれは。随分と熟考なさっていたようで」
「そう怒るな。お前の秘蔵っ子の噂を確かめたくもあったのだ」

 曹丕は悪びれることなく、出来上がった竹簡の山の下の方から司馬懿に竹簡を渡す。どうやらあの分では、かなり前に終わっていたらしい。それなら早く言ってくれとは思ったけれど、気づかなかったなまえもなまえだから、ひたすら固唾を呑んで二人のやり取りを見守ることしかできなかった。

「秘蔵っ子とはこれまた面白い冗談ですな。噂通り使えぬ凡愚だから、人様に迷惑かけぬよう表に出さなかっただけのことです」
「ほう……仲達よ、ならば私が貰い受けてもよいか?」
「は?」
「なまえを本当に私付きの女官にする、ということだ」

 その言葉に司馬懿は目を見張って、なまえを見、それから曹丕の方へ視線を戻した。かと思うと再び視線はなまえの方へ戻ってきて、目が合うなり睨まれた。面倒なことを……と、どうやら本当に目は口ほどに物を言うらしい。だが、曹丕の申し出に驚いているのはなまえも同じで、もちろん決定権などあるはずもなかった。

「いえ、なりませぬ。このような者が曹丕殿のお近くにおれば、必ずやご迷惑をおかけしましょう」
「譲りたくないのならはっきりとそう申せ。それともそれがお前の策か」

 曹丕は僅かに剣呑な雰囲気を醸し出すと、なまえの目の前にあった竹簡を一つとって中身を見る。既に部屋にあった分はほぼ終えていて、なまえは自分が筆を持ったままだったことに今更ながら気が付いた。

「一体”とろくさい”などと誰が広めたのだろうな……?仕事も早く、出来も申し分ない。噂に聞いていたのとは大違いだ」
「先入観があったからそう思えるだけでしょう。この程度のことなら、誰でも」
「惜しむか」
「いえ、そういうわけでは……」
「なら寄越せ」

 動揺している司馬懿なんて、初めて見たかもしれない。なまえは自分のことだというのに、やけに冷静に二人を観察していた。羽扇で口元を覆った司馬懿は固まったままだったが、曹丕は話は終わりだと言わんばかりに次々なまえの仕事を検分していく。
 どうやらもう、処遇は決まってしまったらしい。なまえは筆を置き、恐る恐るといった様子で司馬懿に声をかけた。

「あの、司馬懿様、」
「……なんだ」
「今日の分の私の仕事ですが、これだけ書き上げたら取りに伺います。ですから……」
「当たり前だ、馬鹿めが! 貴様の仕事は明日も明後日もあるのだぞ」
「仲達よ……、明日からは他の女官を使えばよかろう。なまえより出来のいい者はたくさんいるはずだ。そうだろう?」
「……」

 その言葉に司馬懿は唇を噛むと、それでもちゃんと一礼して部屋を出て行った。戸が閉まったのを見届けた曹丕はくつくつと喉を鳴らして笑う。「あれも素直でない男だ」呟かれた言葉に、なんて返せばよいのかわからなかった。
 ただ、彼があそこまでなまえの異動を渋ったことがとにかく意外で、少し離れるのが寂しいような気がした。


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