●ぼっちな司馬懿とぼっちな女官
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「あなた、よく暇を出されないわねぇ」

 半分同情、半分馬鹿にしたような表情で、女官仲間はみな口を揃えてそう言った。その言葉に対してあまり話すのが得意でないなまえは、はぁ、といつものように曖昧な返事を返す。彼女たちはそのぼんやりとした返事に今度こそ嘲笑を浮かべると、頑張って、なんておよそ柄にもないことを言って去って行った。

 後に残されたなまえはというと、また仕事に戻るだけである。昼の休憩はまだもう少しあるけれど、どうせやらねばならない仕事は山のようにあるのだ。そしてなまえの主人もまた同じ考えらしく、執務室に戻れば既に書簡に文字を書き連ねていた。


「女官たちから逃げてきたのか」
「そういうわけでは……」

 司馬懿はなまえを見るなり、皮肉そうに口元を歪めた。だがそれはこの男の癖であって、別段悪意があるわけではない。悲しいことに既に慣れっこになってしまっていたなまえは

「主が仕事をしているのに、休んでいる場合ではありませんから」

殊勝なことを言ってみせ、彼を満足させた。

「貴様はとろくさいからな。人より先に動いて、やっと追いつけるようなものだ」
「心得ております」
「仕事の早い私だからよいものを、これが他の所へ配属されていたと考えると空恐ろしいわ」

 司馬懿は喋りながらもすらすらとよどみなく筆を走らせる。確かに彼の仕事は非常に早く、なまえとは比べ物にならないくらいものすごい量を一人でこなしてしまう。けれども同時に全体でみると軍師である彼に課される仕事も多く、おそらくはここが一番多忙で、責任ある配属先。

 だから、むしろ“とろくさい”なまえならば、他の所の方が良かったのではないか。

「……では、司馬懿様のご迷惑にならぬよう、他の者を付けていただければ……」
「は?」
「いえ、なんでも」

 言いかけた言葉の代わりに、心の中で小さく溜息をつく。どうせ口では勝てやしない。司馬懿がこのようになまえを貶すのは日常茶飯事だったが、その度になまえは自らの能力の無さを申し訳なく思わされた。そして司馬懿は執務室の外でもなまえを貶してばかりなので、女官たちが呆れるのも無理はないのだ。

 司馬懿のせいで城中でのなまえの無能ぶりは有名だったし、それを弁解するほど口が立つわけでも、ましてや自分の能力に自信があるわけでもない。そもそもなまえが出仕し始めたのは半年ほど前であり、そこからいきなり司馬懿付の女官になるなど異例の大出世。寡黙でうるさくない女、というのが彼の目に留まったらしいのだが、最初の頃は妬みで周りからの嫌がらせが酷かった。

 というのも、単に階級がどうのこうのだけでなく、女官には高官たちとの結婚という目論見がある。なまえが来る前から司馬懿は気難しいことで有名だったが、それでも名門司馬一族。なおかつ鬼才と謳われた将来も明るい魏国の軍師となると、狙っていた女官は多かったのである。だからこそ彼女たちからしてみれば、その羨望の役職をあっさり横から掻っ攫っていったなまえが憎い。わざと聞こえるように悪口を言ったり、水をかけられたりするのなんてまだ可愛らしい嫌がらせだった。

 しかし、やがて司馬懿自身がなまえを貶すようになると、いわゆる物理的な攻撃は無くなった。

 司馬懿様はきっと、あんたを憂さ晴らしにお選びになったのよ。

 そんな風にあからさまに言ってくる人もいて、なまえは心のどこかで納得した覚えがある。要するになまえが司馬懿に優遇されていないことがわかり、妻の座を争う競争相手だとは見なされなくなったらしい。人付き合いが苦手ななまえは未だ彼女たちから遠ざけられてはいるが、別段仲良くしたいとも思っていないので問題なかった。だいたい毎日目が回るほど仕事が忙しくて、他のことになど構っている余裕などない。現に司馬懿の机には書きあがった竹簡が積み重ねられ、もうじきそれを運ぶことになるだろう。「なまえ、」呼ばれてすぐに立ち上がり、どこへ持っていけばよいのかを尋ねた。

「これは曹丕殿に、急ぎ目を通すように伝えろ」
「はい」
「渡したらすぐに戻ってくるように。まだまだ仕事は残っているのだからな」
「はい」

 これじゃまるで子供の遣いだ。馬鹿にされているようなものなのに、なまえはなんだか面白くなってしまって、くすっと声に出して笑った。すかさずそれを見咎めた司馬懿が、なんだ、と怪訝そうな表情で問う。

「いえ、まるで小さい子供に言うみたいにおっしゃるから……」
「ふん、そう変わらんだろう。放っておけば、お前はどこで厄介事を拾ってくるかわからんからな」
「厄介事?」
「水たまりで転んだとかわけのわからぬことを言って、よく濡れ鼠になって戻ってきておったではないか」
「あぁ……」

 なまえは思い当たることがあったのでそれ以上何も言えず、苦笑いをして頷いた。それは嫌がらせの一部だ。だが、事情を知らない司馬懿からしてみれば、なまえはとんでもない阿呆である。

「最近はそのそそっかしいのも直ったようだがな」
「ええ」
「せいぜい気をつけて運べ。濡らせば二度は書かぬ」
「はい」

 なるほど裏でこんな悪循環があったのか、とどこか他人事のように考えて、なまえは竹簡を届けるために部屋を出る。そういえば、水をかけられたせいで大事な竹簡を濡らしてしまったことあった。これは怒られても仕方がない。なまえは無意識のうちに曲がり角で一旦止まると(よく足をひっかけられたり、水をかけられたりするのはこういうところなのである)曹丕の執務室の方角へ、慎重に足を進めた。




「馬鹿めが」

 一人になった司馬懿はなまえの気配が遠ざかっていくのを感じながら、ぽつりとそう呟いた。また苦笑して誤魔化しおって……と、彼女の水臭い態度がどこか腹立たしくもある。

「この司馬仲達を欺けると思うてか」

 寡黙なのはよいが、言わねばならぬことまで黙っているのは本当の馬鹿だ。

 司馬懿は、彼女が口さがない女官どもに酷く当たられていることなどとうに知っていた。それは重要な役職を得た者には必ず付きまとう嫉妬だったが、女たちのそれは司馬懿には理解できないほど幼稚でたちの悪いものだった。だが、なまえ本人が何も言わぬものを司馬懿がどうにかしてやることは難しい。表立って司馬懿が庇えば今度はよくも告げ口したなとなまえのほうへ矛先が向くだろうし、嫌がらせはより巧妙に隠されるだけのこと。だからこそ司馬懿はあえて彼女に厳しく接し、その様子を他の者に見せつけたのだ。

 しかしてその策は功を奏し、近頃なまえが濡れたり痣をこさえたりして帰ってくることは無くなった。

 が、このなまえ、本当に凡愚である。

 司馬懿なりのささやかな配慮には微塵も気づかず、それどころかどうやら“とろくさい”、“使えぬ”という評価を真に受けているらしいのだ。

 実際、なまえはこの城中で誰よりも働き者だった。暇があれば男に媚びへつらい、鏡を見ているような他の女官と違って、無駄口も叩かず、言われた仕事は確実にこなしている。だからそれを最初から見抜いた司馬懿の目は、本当に確かであると言わざるを得ない。

 なまえは生来の性質が真面目なのか、遅刻をするどころか残ってまで書棚の整理をするほどだし、むしろ彼女が来てから万年不足気味だった司馬懿の睡眠時間が伸びたくらいである。

 このように本来ならば褒められるべき彼女なのだが、嫉妬をかわすためにわざと辛く当たっていたため今更褒めるのもなんだか気味が悪いし、そもそも司馬懿は他人を褒めるのが苦手なのだからどうしようもない。なまえは誤解し、誤解されたまま、今日も何も言わず仕事だけをこなすのだろう。それは司馬懿にとって都合のいいことだったが、一方でどこかつまらぬ想いを抱かせた。なぜ、彼女は頼ってこない。なぜ怒らない。

「……遅い。また嫌味のひとつでもぶつけられているのか」

 司馬懿は不機嫌そうに眉をしかめると、少し乱暴に筆を置いた。


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