「た、た、大変だよー!」

 そうやってバタバタと足音を立てて執務室に飛び込んできた馬岱に、姜維は部屋の主である諸葛亮よりも先に眉をひそめた。他の者なら何かのっぴきならない事態が発生したのかと身構えるが、馬家の者が騒いでいるときは大抵下らないことなのである。そのため、姜維の声音が少し非難めいたものになるのは仕方がないといえば仕方がなかった。

「馬岱殿、あなたは今日馬超殿のお目付け役ではなかったのですか」
「そうなんだけど、それどころじゃなくってさー」
「何かあったのですか?」

 視線だけで座りなさい、と促した諸葛亮はいつもの穏やかさを決して崩しはしない。その雰囲気が移ったのか、騒がしかった馬岱も少し落ち着きを取り戻した。

「大変ですよお! どうやらなまえは趙雲殿ではなく、若のことが好きみたいなんです!」
「それは、なまえ殿本人がそうおっしゃったのですか?」
「はい! “執務を放り出して遠乗りに行くような男が好み”だって、そんなのもう若しかいないじゃないですか!」
「た、確かにそんな不届き者が何人も蜀にいては困りますが……!」

 もしも本当になまえがそう言ったのだとしたら、その条件にあてはまる男は馬超しかいない。姜維はこれまで、よくあの馬超の無茶さについていけるなとなまえの精神力に密かに呆れ、いや、関心していたくらいなのだが、彼女が馬超を好いていたのならそれもなるほどと腑に落ちる気がした。

「いや、でも、それでは趙雲殿はどうなるのですか丞相!?」
「そうですねぇ、最悪、なまえ殿を巡って二人がぎくしゃくすることになるかもしれませんねぇ」
「だから大変だって言ったんだよぉ〜!」

 趙雲がなまえに惚れている、というのは実は結構周知されていることだった。当の本人が秘密だと思っていること、なまえと馬超が全く気付いていないこと、それでもめげずに趙雲に懸想する女官がいることは蜀の不思議話であるが、とにかく今回のことで五虎将軍の二人が不仲なんてことになったら国をゆるがす危機である。
 煽った割に諸葛亮は随分と涼しい顔をしていたが、慌てる馬岱とその雰囲気に引っ張られた姜維が気づくことはなかった。

「いや待ってください、なまえ殿の気持ちはわかりましたが馬超殿はどうなのです? いくらなまえ殿が懸想していても、当の馬超殿があれなら大丈夫なのではないですか?」
「俺もそう思ってさ、聞いてみたんだよ若に! そしたら若はなまえ殿のことを友人としか思ってなかったみたいなんだけど、なまえ殿が想ってくれていたのならそれに向き合わないのは失礼だとかなんとか言いだして……!」

 飛び出して行っちゃったんだよ、若。

 それを聞いた姜維は頭を抱えると小さく呻いた。

「馬岱殿、あなたは今日馬超殿のお目付け役ではなかったのですか……」

 ▼△

 城下の散策は想像していたよりもずっと平和で楽しい時間だった。危惧していたような荒事は存在せず、人々の穏やかな表情にさすが劉備様の治める国だと鼻が高くなる。お忍びでの見回りだからと夫婦者のような振る舞いをして、肉まんを買い食いして微笑みあったり、どこそこの甘味が有名だからと列に並んだり、あれ? よく考えたら食べてしかないのでは? と思いつつも、趙雲は久しぶりに満たされた気持ちで隣を歩くなまえの横顔を眺めていた。

「ねぇねぇ趙雲殿、次はどこへ行きましょうか?」
「そうだな、私はなまえ殿と一緒ならどこでも構わない」
「うーん、じゃあ次は桃月堂の桃饅頭を食べに行きましょうよ。この前女官の子たちが美味しいって噂しててね、私も食べてみたいなあって思ってたの」

 一体その細い体のどこにそれだけの食べ物が入るのか。趙雲だって武人だから、そのへんの男よりは食べる方だと自覚しているが、なまえの健啖家ぶりには驚かざるを得ない。しかし美味しい美味しいと顔をほころばせる彼女は大変に可愛らしかったので、惚れた男は特に異論を唱えることもなく彼女の後に続いた。

「混んでないといいんだけれど」
「座れないようだったら、土産として買っていくのもいいだろう」
「それもそうね。そういえば馬超も食べたいとか言ってた気がするし……」

 だが、浮ついた足取りも彼女から発せられた“馬超”の名にぴたりと止まる。いつでもどこでも出てくるその名に、せっかくの二人きりの時間にまで彼女の頭の中にいる馬超に、嫉妬をするなというのは土台無理な話であった。「なまえ殿」呼びかければようやく趙雲がついてきていないことに気が付いたのか、なまえは不思議そうな顔をして振り返った。

「ん? どうしたの? 他に行きたいところでも思いついた?」
「……そうではない。ただ、聞きたいことがあるのだ」
「聞きたいこと?」

 小首をかしげるなまえを前に、趙雲は深呼吸する。まるで出陣前のような緊張感が全身を包むのを感じた。

「ああ。その……なまえ殿は、馬超のことをどう思っているのだ?」
「え? 馬超?」
「そう、馬超だ」
「いや、そうじゃなくて、後ろ……」
「え?」

 なまえーー!! 趙雲ーー!!

 戦場で目立つ金の兜がなくとも、こちらに向かって走ってくる男を見間違うわけがない。噂をすればなんとやら、息を切らせて乱入してきたのは他でもない馬超だった。

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