秘密を穴に埋めてからというもの、なまえはいつも通りの調子に戻ることかできたようだった。

 仕事の失敗がなくなったことは当たり前として、執務中にぼんやりすることもない。むしろ今まで以上に元気になって、きびきびとよく働いた。

「司馬懿様、こちらはもう出来上がりましたので届けてまいりますね」
「う、うむ……」

 だが、元気になったなまえと入れ替わるように、今度は司馬懿の調子が出なかった。もちろんそれは先ほど、なまえの秘密を聞いてしまったことが原因である。好きだと言いながらも臆面なく話しかけてくるなまえに、司馬懿はどんな顔をすれば良いのかわからず、まともに目を合わせることすら叶わないのだ。

 そしてむしろ先ほどのあれは、司馬懿が聞いているのを知っていてからかわれたのではないかと疑心暗鬼に陥ったくらいである。けれども、なまえにそんな知恵が回るとも思えないし、人の気持ちを弄んでくすくす笑うような性格の悪い女でもない。仮にも司馬懿が目をかけた女なのだ、その心根の真っ直ぐさは保証できる。

 しかしそうなればなおさら、彼女の行動が全くもって理解できなかった。なぜ想いを直接司馬懿に伝えないのか、いや、もっと言うならなぜ、穴の中に埋めただけであんなにもすっきりした顔をしているのか。

 司馬懿の提案には実際何の心理的効果もないはず。だから彼女の胸が軽くなったのだとしたら、それは絶対的なまでの司馬懿への信頼か、はてさて言うほど悩みに思っていなかったかのどちらかである。

 もちろん、前者であることを信じたい。それならば馬鹿で可愛い奴よと愛しさにも拍車が掛かる。けれどももし後者だった場合、とてもではないが司馬懿から想いを伝えることは、そんな馬鹿を見ることはできない。彼女のことだからあの笑顔で「そういう好きではありません」と言ってのけてもなんらおかしくない気がした。

 司馬懿は最悪の結果を想定して、知らず知らずのうちに小さく呻く。すると、机の上にさっと影が落ちて誰かがこちらをのぞき込んだ。

「……司馬懿様? お加減でも悪いのですか?」
「う、うわっ! い、いつの間に戻っておったのだ!?」
「今さっきですよ。声をおかけしたんですが、どうも先程から難しい顔をしていらっしゃるので……」
「何でもない、平気だ」
「あまり根を詰めすぎないでくださいね」

 一体誰のせいで……と言いかけて、司馬懿は慌てて口を噤んだ。司馬仲達ほどの者が部下の秘密を盗み聞きしたとあっては、いくらなんでも外聞が悪いし、彼女からも軽蔑されてしまうかもしれない。

 やはり、秘密を聞いたことは気取られず、彼女自身にはっきりと言わせるのが一番上策だろう。
 司馬懿は全く進まない筆を硯に置くと、改まって彼女の名前を呼んだ。

「おい、なまえ」
「なんでしょう?」
「……先程言っていたあれは、もういいのか」
「あれ?」
「その、あれだ、機密事項がなんちゃらと言っておったあれだ」

 そこまで言わねばわからぬか! と焦れったいのを堪えて、司馬懿は何気ない風を装って尋ねる。するとなまえはようやく合点がいったらしく、あぁ……と思い出すような素振りを見せた。

「ええ、お陰様で。ご心配をおかけしました」
「元より心配などはしておらぬ、お前の仕事が滞ればこちらにも迷惑がかかるので仕方がなかっただけよ」
「はい、ありがとうございます。今までの分も取り返せるよう一生懸命頑張りますね!」

 うむ……と頷きかけて司馬懿は小さく首を振った。違う、そういうことを言いたいのではない。しかし完全に話は終わったものとして、仕事に精を出しているなまえにこれ以上どう聞けば良いのだろうか。やはり、馬鹿には直接聞かねば伝わらないのだろうか。そうこうしている間にも溜まっていく仕事に、司馬懿は再び唸るしかなかった。

「司馬懿様? 本当に大丈夫なのですか?」
「あぁ。それよりもその……なまえよ、何が私に言わねばならぬことがあるのではないか?」
「私が司馬懿様にですか?いえ、重要なことはちゃんとお伝えしたはずですが……」
「仕事の話ではないのだ」

 私ったらまた何か忘れてるのかしら……と困惑顔になるなまえに、もはや忌々しささえ感じる。それが好いた男に対する態度のなのか! いや、本当になまえは司馬懿のことを好いているのか?

 仕事ではない、と言うと、なまえは余計に首をひねった。

「はて、何をお伝えしたらよいのでしょうか」
「……もうよい、お前には呆れたわ」

 とぼけているのではなく、本当にわかっていない様子の彼女に、司馬懿はとうとう脱力した。しかしなまえはそれを見て何を勘違いしたのか、さっと表情を強ばらせた。

「待ってください、頑張って思い出しますから」
「思い出すとかそういう話ではないのだが……」
「いえ、見捨てないでください。私馬鹿ですけど、頑張りますから」

 急に泣きそうな顔になってうんうん考え込むなまえに、司馬懿はふとある策を思いつく。どうやら恋情かどうかは別として司馬懿のことを慕っていることに偽りはないようだから、うまく行けば自白させることができるかもしれない。わざと険しい顔を作ると、改めてなまえの顔を正面から見据えた。

「言いたくなければそれで構わぬがな、裏で不満を漏らされていると知れば私も気分が悪いのだ」
「は?え?不満ですか?」
「貴様が言えぬと言っておったあれは、私への不満なのだろう。長い付き合いであるし少しくらいは耳を傾けてやろうと思ったが、貴様がそのような態度をとるならもうよいわ」
「ち、違います!なんでそんなこと……!」

 思った通り、なまえは真っ青になってぶんぶんと首を振る。実際に彼女の悩みを盗み聞きした司馬懿は、彼女が本当のことを言っているとはわかっているのだが、わざと怒った素振りを見せた。

「ではなんだというのだ、私に言えぬということは私にまつわることではないのか」
「そ、それはそうですが……でも、決して不満などでは!」
「まったく、お前には失望したわ。辞めたければ好きに辞めよ、止めはせぬ」
「待ってください、司馬懿様! 言います!言いますから!」
「ほう、では聞いてやろうではないか」

 慌てふためくなまえからまんまと言質をとった司馬懿は、笑みが零れぬよう口を真一文字に結ぶ。哀れななまえはしばし視線を泳がせたあと、真っ赤な顔で囁くように言った。

「し、司馬懿様をお慕いしております……」
「っ……」

 言わせてしまえば、それで勝ちだと思ったが。
 正面切って告げられた愛の言葉に、司馬懿の仕事は結局何一つ捗らなかったのであった。


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