いつだって口は災いの元である。
 このご時世、ふとした一言で殿や上官のご不興を買うことだってあるし、そうなれば最悪首が飛ぶ。また、大事な情報や計画をついうっかりと漏らしてしまったというようなことがあればいつ窮地に陥ったとしてもおかしくない。
乱世というのは何も戦場だけ気を張っていればよいものではないのだ。

 だからとりわけ軍師というものは、自分の感情や考えをあまり表に出さないのが普通であった。いくら素晴らしい策や知略をめぐらそうとそれが筒抜けでは意味がないし、軍の機密事項を扱うため、いつどこに間者が潜んでいるとも限らない。
腹の内を読まれぬよう努めて冷静に無表情でいるか、反対にどんな時も穏やかな笑みを浮かべて真意を誤魔化すか。

 司馬懿という男は、確実に前者だった。それどころか笑顔という言葉からは程遠い人間である。だが、周りに冷ややかな印象を与える彼は同時に激情家でもあり、怒った時はそれはそれは恐ろしいのだ。

「こんの馬鹿めがっ!!」

 本日三回目になる司馬懿の雷が落ちて、なまえはただ首を竦めるしかなかった。どうせ弁解をしたところで鬼才と謳われる軍師に口で勝てる気はしないし、根本的になまえが悪いのだから仕方がない。
 というのも司馬懿を補佐する文官の身でありながら、なまえは最近まったく仕事に身が入らず、些細な失敗を繰り返してばかりいた。完璧主義の上にそうでなくても沸点の低い司馬懿がそれに怒らぬわけがなく、毎日毎日外にまで聞こえるほどの大声で怒鳴られている。

「大事な竹簡だから他の物とわけておけとあれほど言ったであろうが!」
「す、すぐに探して来ます!おそらく間違って書庫に片付けてしまったんだと……」
「まったくもって時間の無駄ではないか。先ほどから見ておればぼうっとしてばかりおるし、これならまだ新人の方が使えるわ」
「申し訳ありません……」

 確かに、司馬懿の元に配属された当初は仕事を辞めたくなるくらいに叱られたし、実際それで辞めていく者も多く、司馬懿の所はいつも人手不足である。だがなまえはこれでももう三年は続いており、何も言われずとも仕事の補佐や身の回りの世話までできるくらい慣れた者のはずであった。

「本当にお前は最近どうかしておるぞ、一体何があったと言うのだ」

 だからこそその証拠に、こうして司馬懿は怒りながらも心配してくれる。彼にとってもなまえは付き合いの長い部下であり、共に過ごした時間は司馬懿の冷ややかさも幾らかは融解させるものだ。それになまえは、彼が皆が言うほど冷たく恐ろしい人ではないことを知っていた。

「どこか悪いのか?」
「そういうわけではありませんが……」
「では、何か悩みでもあるのか。仕事に差しさわりが出るようでは迷惑だ、聞くだけなら聞いてやる」
「いえ、悩みというほどでも……」

 実際、なまえが仕事に集中できないわけはまさしく胸中にある悩みのせいだった。だがしかしこればかりは司馬懿に言うわけにもいかない内容で、自分で解決もできぬ、相談もできぬ、もっと言うと解決したいのかすらよくわからぬ、という有様である。ただずっと胸の内に募る想いは日増しに大きくなり、なまえはそれをずっと持て余し続けていた。

「……ほう、この私に隠すと言うのか」
「私だって無性に言いたくてたまらないのですが、言ってはいけないことなのです」
「なんだそれは、意味が分からぬ。機密事項ということか?」
「そう受け取ってもらっても構いません。言いたいのに言えないからもやもやするのです」

 なまえはそこまで言って、どうにかならないものでしょうか、と眉を寄せた。直接解決できずとも、司馬懿ならば何かこう気にならなくなるような案を出してくれるのではないかと思ったのだ。
司馬懿は初め、なまえが悩みを打ち明けぬことを面白くないと思っていたのだが、頼られていることには代わりないので幾分機嫌を直したのであった。

「つまり、お前はその秘密を胸の内に留めておくのが辛いと申すのだな?」
「そうでございます」
「そうか……ならばこうせよ」

 果たして軍師の言葉やいかに。
 司馬懿の言葉を聞いたなまえはぱっと顔を輝かせると、すぐにそう致しますと喜び勇んで部屋を出ていこうとした。司馬懿も一瞬、その勢いに頷きかけたが、忘れてはならないことがある。

「馬鹿めが!先に竹簡を取ってこんか!」
「あ、はい!」

 なまえは弾かれたように書庫に向かって駆け出した。

▼▽


 最近、どうもなまえの様子がおかしいということに、司馬懿はとっくの前から気づいていた。
 もっと言うなら気が付いたのは当の本人よりも早く、またいつから様子がおかしいのかまで仔細に記憶しているのは司馬懿の方かもしれない。だが、司馬懿の観察眼をもってしても、なまえが何を考えているのかさっぱりわからなかった。

 というのもなまえの性格は単純ながら、不意に突拍子もないことをやってのけたりするし、きちんと考えて行動するというより完全に思い付きであるところが多いのである。つまり有り体に言うと司馬懿とは正反対の性格なのだが、意外や意外、これが何かと上手くいっていてなまえは今やもう司馬懿になくてはならない部下となっている。それに加えて仕事以外でも司馬懿には思うところがあったのだが……なにせ素直ではない彼のことだから、自分の気持ちを気取られるような真似は絶対にしてこなかった。

「ちっ、どうせ下らぬことだろうが……」

 そして司馬懿は今、昼休憩中の彼女が一生懸命中庭に穴を掘っているのを物陰に隠れて伺っている。もちろん、なまえのこの不可解な行動は先ほど司馬懿が”悩みを解消するため”に教えた内容であり、彼女はそれに素直に従っているだけだから悪くない。

 どちらかというとこっそり覗いている司馬懿の方が問題あるのだが、元はと言えば水臭いなまえが悪いのだ。なまえの胸の内にあるものが何かは知らないが、彼女の地位や役職から考えて絶対に機密事項なんてたいそれたものではないはず。それなのに隠されたことが気に食わない司馬懿は、絶対に彼女の秘密を暴いてやると胸に誓って、このような少々汚い手を使うことにしたのだった。

 様子を伺うことしばし。
 ようやく掘り終えたなまえは満足そうな顔をして、ふうと息を吐いた。
“言いたいけれど言えない”という悩みを持つなまえに対して、司馬懿が授けた解決策は“口に出して言ってしまえ”という酷く単純なものだった。人に話せぬというなら、人以外に話せばよい。そして単に呟くのではなく、わざわざ穴を掘って“秘密を埋める”という儀式をすることでこそ、厄介な胸のもやもやは消えるだろうと教えたのだ。

 これを聞いてなまえは喜んだが、こんなものは所詮司馬懿が適当に言ったにすぎず、その効果のほどは保証されていない。ただ、こうやってやり方を面倒にしておくことで、司馬懿はなまえの秘密を盗み聞きしやすくなると思っただけなのだ。

 こうして完全に司馬懿の術中にあるなまえは何も知らずに穴を覗き込むようにして身をかがめる。こちらは固唾を呑んでそれを見守った。


「し、司馬懿様をお慕いしております」

 それは小さな声だったが、司馬懿の耳に飛び込むには十分すぎる声量だった。胸の内をさらけ出したなまえはまるで重い荷物でも下ろしたかのようにふう、と溜息をついたが、反対に司馬懿は息もできないでいる。なぜ、どうして、と愚にもつかぬ疑問ばかりが頭を埋め尽くしたが、理性よりも感情は素直でかあっと全身が熱くなる。

 なまえが自分のことをそんな風に思っていたなんて、まさか想いが通じ合っているなんて知らなかった。素直でない司馬懿と違って普段から感情がすぐ表に出る奴だから、てっきり自分のことはただの上司としか思われていないと思い切っていたのに。

 嬉しさと、それならなぜ隠すのだという困惑とで、司馬懿はそこにしばらくの間棒立ちになっていた。その間にもなまえはさっさと穴を埋め直し、一仕事終えたと言わんばかりのすっきりとした表情で去っていく。午後からの執務は、一体どんな顔をして会えばよいのか。こちらも同じ想いだと告げれば盗み聞きしていたことがばれてしまうし、第一なまえ自体に直接言ってくる気がないことも引っかかる。

 どうやら今度は司馬懿が胸のもやもやを抱える羽目になってしまったらしかった。


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