こうして再び司馬懿付きの女官に戻ったなまえだったが、生活の方は前と大して変りなく。朝から晩まで執務室にこもりきり、もくもくと仕事を片付けていくだけの日々である。

 曹丕の所から外されたことでまたもや女官仲間の噂の種になってしまったが、ちらりと小耳に挟んだ話ではどうやらなまえがとんでもない粗相をしでかしたことになっているらしい。
 今度はよく命があったわねぇ、なんてからかいを超えた反応をされて、今回の件がなまえの無能っぷりを表す武勇伝の一つに加えられたことを悟った。

 だが別に、今更なまえは自分の評価など気にはしていない。気にはしていないが、その無能に情けをかけてやった司馬懿、という構図がどうもすっきりしない。冷たそうに見えて情に厚い方なのね、とうっとりした表情で語っていた女官を見て、なまえは思わず吹き出しそうになったくらいだ。しかし笑っていられたのもそこまでで、なまえが粗相をしたという噂の元凶が司馬懿であると知った時には流石に引いてしまった。

「まさかご自分の株を上げるため、なんてことは……」
「貴様、私を何だと思っておるのだ。曹丕殿付きから外されたもっともらしい理由をあげておけば、余計な詮索もされるまいと思ってのこと。幸いにして貴様の無能っぷりは有名だから、誰一人として疑わなかったわ」
「余計な詮索と言われましても、別に私は……」

 探られたところで何もしていないのだから痛くもかゆくもない。というか、そもそもなまえが司馬懿付きに戻ることになったのは、自己管理ができずに司馬懿が倒れたせいだ。
 つまりはこの男、自分の醜態を知られまいとなまえのあることないこと噂を流し、あまつさえ自分の株まで上げたのか。

 いくら軍師とはいえ、性格が悪すぎる。

 そんな想いが顔に出ていたのか、司馬懿は見下したような目でなまえを見た。

「何か勘違いしておるようだが、私が守ったのは曹丕殿の名誉だ」
「曹丕様の……?」
「放っておけば下世話な女たちのこと、お前が曹丕殿のお手つきになって満足させられなかったと言い出す者もでてくるだろう。いくらこの国の女は曹丕殿の自由とはいえ、貴様のような者を相手にしたとなれば趣味を疑われかねないからな」
「そこまでおっしゃいますか……」

 人を馬鹿にすることにかけては、本当に右に出るものがいない。そのくせこちらが少しでも傷ついた表情になると、必ず回りくどい訂正をいれてくるのだから何がしたいのかわからない。今回もなまえが言葉を失って(これはどちらかというと呆れたからなのだが)いると、司馬懿はわざとらしく咳ばらいをした。

「まぁ、人の好みは様々だからな、貴様のような者でもいいと言ってくれる奇特な人間もどこかにはいよう」
「……」
「あ、案外働き者の嫁など好まれるかもしれないぞ?」
「もういいです、司馬懿様」


 仕返しとしてわざと落ち込んだ振りをすると、さっと司馬懿の顔色が変わる。

「なまえよ、その……冗談だ」

 声小さいなぁ、と思いつつ、なまえはそれを無視して仕事に集中した。これでしばらくは司馬懿も静かになるだろう。だが、なまえはふと自分と司馬懿も一時期噂されていたことを思い出して、なんだかそれを伝えたら面白いような気がした。

「……お、おいなまえ、聞いているのか」
「司馬懿様、私、これから司馬懿様とは距離をおかせて頂きますね」
「何もそこまで怒らなくてもいいだろう」
「いいえ、そうではなく。司馬懿様の名誉の為です」
「私の……?」

「女官仲間の間でそういう噂があるのですが、司馬懿様のご趣味が疑われかねないので」

 神妙な顔でそう告げれば、司馬懿の目が見開かれる。

「なっ……!?」

 そして意味を理解したのか次の瞬間には耳まで真っ赤になった。

「ば、馬鹿めが! そんなわけのわからぬことを言っておるのはどこのどいつだ!? 貴様と私が、そ、そのような……!」

手に持ったままの筆から墨の雫が垂れているが、司馬懿はそれに気が付いていない。予想以上の狼狽ぶりにからかったなまえまでもがなんだか恥ずかしくなってしまって、「だいぶ前の噂です」と上ずった声で返した。

「う、噂にしても酷いものだな、この私が貴様なんぞを相手にするわけが無かろう」
「……」
「あ、いや、それはその、私はそのような目的で女官を選んだりしないという意味であってだな……」
「墨」
「は?」
「垂れてますよ、さっきから」

 指摘されたことで、司馬懿の視線がゆっくりと現状を捉える。ぽたり、と大きな染みはせっかく書いた文字を潰してしまい、どう考えてももう一度やり直さねばならないだろう。司馬懿は小さく呻いたあと、八つ当たりするようになまえをねめつけた。

「……まったく、貴様がおかしなことを言うものだからやり直さねばならんわ」
「司馬懿様ともあろうお方がたかだか噂話ごときにあれほど反応なさるとは」
「ふん、貴様も言うようになったではないか」

 とは言いながらも、駄目になった書簡を片付け、垂れた墨を掃除するのもなまえの役目である。手際よく片付けていくなまえを見ながら、司馬懿は揶揄するようにそう呟いた。

「無口だと思っていたが、喋ったら喋ったで可愛げの無い奴よ」
「皮肉は司馬懿様から学びました」

 あとは彼と話すことに慣れたせいでもあると思う。
 いくら人付き合いが苦手ななまえであっても、一番長い時間を共に過ごしていれば気安さも湧く。新しい書簡を司馬懿に手渡すと、彼は少し呆れたようにまなじりを下げた。

「どうせ学ぶならもっと他に学ぶべきことがあろうが」
「学んだと言うより、一緒にいるうちに似てきたのかもしれませんね」
「そ、それではまるで……夫婦ではないか」
「え?」
「ええい、なんでもないわ!」

 突然暴れた司馬懿のせいで机はがたんと大きく揺れ、なまえが片付けるものは余計に増えてしまった。だが、なんだか今まで通りの日常が戻ってきたような気がして、なまえは彼女にしては珍しく声を上げて笑ったのだった。


End


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