司馬懿が倒れる前、いくら彼の様子に気を取られていたからと言っても、話の内容はちゃんと耳に入っていた。だから改めて訂正をいれた彼を律儀な方なのだなぁ、と思いつつ、本当に素直でない人なのだと再確認する。

 しかし褒められたことは意外でしかなくて、嬉しいような気恥ずかしいような、それでいてどこか不安になるような。
 どうやらなまえの方も十分素直でないらしく、彼は今弱っているからあんな柄にも無いことを言ったのだろうなんて勝手に結論づけて納得した。

「……早く元気になってくださいね、なんだか叱られないというのも調子が狂いますから」
「ふん、妙な事を言う女だ」
「前から思っておりましたが、司馬懿様は働きすぎです」
「私だって働きたくて働いておるのではないわ。国を任せられぬ凡愚が多すぎるから、こうも私が執務をせねばならん」

「ほう……仲達よ、お前に執務をやらせていた私のことをそんな風に思っていたのか」

 司馬懿の部屋に無断で入ることができ、しかも彼を字で呼ぶ人間は限られている。突然会話に割り込んだ声に、なまえは振り返ってすぐさま部屋の隅に寄った。

「いえいえ、滅相もない。曹丕殿のことではございませぬ。凡愚というのは、なまえのような者のことでございます」

 司馬懿は寝台から立ち上がると、恭しく拱手をする。先ほど褒めたあれはなんだったのだ、と言いたくなるほど清々しい裏切りを口にし、いつもどおりの涼しい顔で曹丕と向かい合った。

「どうやらいつもの調子に戻ったようだな。書庫でお前が倒れているのを見たときは驚いたぞ」
「この度は醜態を晒してしまい、本当に御迷惑をおかけいたしました」
「あぁ、今後ああいうことは無いようにしろ。下の者に示しがつかん……といっても、お前が忙しいのは十分に理解しているからな」

 曹丕はそこまで言うと、不意になまえの方をちらりと見た。そして眉間のしわを濃くすると、今度はまじまじと見つめてくる。いたたまれなくなったなまえがいかがされました、と口を開こうとした瞬間、厳しい声が彼から発せられた。

「……ところでなまえよ、そなたはなぜ濡れている」
「え、あ、これは……」

 服は確かに着替えたが、髪はまだ濡れたままである。司馬懿の世話をするのに一生懸命で、髪のことまで気が回っていなかった。そもそも水をかけられたのもわりと久しぶりなことだったので、咄嗟に言葉が出てこない。
 狼狽の色を浮かべたなまえに、司馬懿がこほんと咳払いをした。

「こやつは私の元にいた時からそうなのです。なにかとそそっかしい女で、水たまりには嵌ることなど日常茶飯事。曹丕殿がご覧になるのは初めてでしたかな?」
「……仲達よ、まさかとは思うがそのような下らぬ嘘、お前が考えたのではあるまいな」
「はて、なぜ私がこんな女のために嘘をつかねばならぬのでしょう?」

 話している内容自体は至極どうでもいいことなのに、この二人が話しているとなんだか空気がぴりぴりしているような気さえする。口を挟むことなど到底できるはずもなく、なまえはおろおろしながら二人を見守っていた。が、やがて曹丕の方がふう、と息を吐いた。

「……なるほど、それは確かに噂にたがわぬ愚か者だな」
「ええ、ですから初めからそう申し上げております」
「ならば要らぬ、大事な書状を濡らされでもしたら困るからな」

 曹丕はなまえに向き直ると、今日限りで暇を出す、とはっきりと言った。まさかいきなり失業してしまうとは思わず、なまえも、そして司馬懿までもが呆然とする。

「曹丕殿、しかしいくらなんでもそれは急では……代わりの者が仕事を覚えるのにも時間がかかることですし」
「お前は自らが凡愚と称する者をこの私に仕えさせるのか?」

 無理矢理欲しがったのはそっちじゃないか、と言えるはずもない言葉を呑み込んで、なまえは大変な事になった、と青くなっていた。他の女官にはよく暇を出されないわねぇ、なんてからかわれていたが、まさか現実のことになろうとは。
 郷里に帰るにもなまえの居場所はもう無いだろうし、一体これからどうすればよいのか。衝撃を受けながらも、次のことを考えている冷静な自分が他人のようであった。

「もう決めたことだ。なまえは今日限りで私付きの女官から外す。……だがもしも仲達、お前がその後召し抱えてやるというなら好きにすればいい」
「は、では……」

 そこでようやくなまえは、曹丕の口元が緩く弧を描いていることに気がついた。いつもの冷笑ではなく、どこかからかいを含んだ、にやりとした微笑み。司馬懿も曹丕の言わんとすることがわかったのかちらりとなまえを見た。そして不意に、その端正な顔に意地の悪い笑みを浮かべた。

「はぁ、そうですか。曹丕殿が決められたことならば、もはやこの私がどうこうできる問題ではありませんな。しかし情けをかけてやるにもこの凡愚ぶりでは……少し考えさせて頂きたい」
「仲達よ……お前は本当にどうしようもない男だな」
「はて、なんのことでございましょう?私とて大事な書状を濡らされては困りますからな」

 付き合いきれぬ、と呆れたように曹丕が肩を竦めるのを見て、なまえも同感だった。しかしこちらから言わねば絶対に事は進まないのだろう。生活がかかっているのだし仕方がない。
 なまえはうんざりした気持ちを奮い立たせ、司馬懿様、と控えめに呼びかけた。

「至らぬ点も多いですが精一杯お役に立てるように尽力致しますので、どうかなまえを司馬懿様のお傍で働かせては頂けないでしょうか」

 頭を下げたせいで司馬懿の表情は伺えないが、絶対に満足そうな顔をしているに決まっている。だが、腹が立ったり屈辱的だと思うより先に、この茶番はなんなのだという呆れた思いが胸を満たした。

「……まぁ、お前がそこまで言うのなら仕方がない。使えぬ凡愚でもいないよりはマシだろうからな」
「寛大なるご処置、ありがとうございます」


 こうしてなまえは再び司馬懿付きの女官に戻ったわけだが、果たしてそれは良かったのかどうか。曹丕の部屋に残した仕事を取りに戻る道すがら、なまえが思わず小さなため息を漏らすと、前を歩いていた曹丕が振り返って憐れむような視線を向けてきた。

「確かに仲達があれでは、そなたでなければ務まらぬかもしれぬな……」

 司馬懿があんなに下手くそに他人を庇うのを初めて見て、少々面白い気分になっていた曹丕だったが、どうやら素直でない司馬懿のせいで道のりはまだまだ遠いようである。

 しかし苦笑を返したなまえの方も、心なしかその表情は明るかった。

prev next
back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -