未だぼんやりとする意識の中で、誰かがそっと部屋に入ってくる気配がした。

 今は一体何時なのだろう。うっすらと目を開けて扉の方へ視線を向けると、ちょうど戸を閉めている小さな背中が見える。なまえだ。でも、なまえが司馬懿の部屋にいるはずがない。
 まだ夢の中にでもいるのかもしれないと、もう一度目を閉じる。

 そもそもどうして自分は寝台にいるのか。まだ灯りがつけられていなかったので、夜ではないのだろう。そうだ、仕事だ。仕事はどうなった。司馬懿はようやく自分が急な眩暈に襲われたことを思い出して、再び目を開いた。そして視界に飛び込んできた光景に、思わず叫び声をあげた。

「っ!? なまえ、何をしている!?」
「えっ!? あ! 申し訳ありません!」

起きていらしたのですか!? とこちらもまた動揺しているなまえは、先ほどは気が付かなかったがなぜかびしょ濡れで。司馬懿がそこで眠っているのをいいことに、この場で着替えようと着物を脱ぎかけていたのだ。おかげでまだ眠りの淵を漂っていた司馬懿の意識は急速に覚醒され、馬鹿めが! と怒鳴って寝返りを打った。

「お、男の前でそう堂々と脱ぐ奴があるか!」
「目を閉じていたので、まだ眠ってらっしゃるとばかり……申し訳ございません」
「っ、私が向こうを向いている間に早く着替えぬか」
「は、はい」

 寝起きの身に、今のは心臓に悪すぎる。だがあの濡れようは、きっとまた他の女官にやられたものだろう。司馬懿は“自分の元からいなくなった”部分にばかり焦点を当てていたが、周りから見ればなまえは明らかな昇格。やはりこの一週間、今まで以上の妬みをぶつけられていたのかもしれない。そしてまたなまえのことだから曹丕には告げ口せず、みなが飽きるのを辛抱強く待っている。彼女がここで着替えようとしたのも、びしょ濡れのままうろうろしては曹丕に見つかる可能性があるからに違いなかった。

「……しかしなまえ、もう私には言えるのではないか」
「何をです」
「一体それを誰にやられた?」

 背中を向けたままなので、なまえの表情は見えない。だが、彼女が小さく息を呑んだのがわかって、司馬懿はなんとなくしてやったり、という気分になった。

「……気づいておられたのですか」
「ふん、むしろ私を欺けると思っている方が間違いよ。だが今のお前は曹丕殿付きの女官だ。曹丕殿には黙っておいてやろう」
「別によいのです、竹簡さえ濡れなければ。いろいろまた面倒ですし」

 なまえはもう振り向いてもらって大丈夫ですよ、と言った。その声に従って再び寝返りを打った司馬懿は、寝台のすぐ近くまで来ていたなまえを見上げる形になる。服は着替えたものの依然として髪は濡れていて、白い頬に張り付いた横髪がどこか艶めかしい。

「それよりもお加減はいかがですか?」
「あぁ……悪くない」

 少しの間なまえに見とれていた司馬懿は、気を取り直したように頷き、それからゆっくりと上半身を起こした。

「私はどのくらい眠っていた?」
「四刻半ほどです。たいそうお疲れなようでしたから」
「……それではもう夕方か。執務は、」
「私にできそうなことはやらせていただきました。でもまだ、司馬懿様の確認や印が必要な分は残っています」

 なまえは事も無げにそう言うと、机の上の竹簡を指して見せる。

「ですが今日はまだ無理をなさらぬよう。これは曹丕様からのご命令です」
「そうか……」

 司馬懿はなんだか肩の力が抜けた気がして、ふうと溜息をついた。その間にも、お茶を淹れたなまえが「何か食べられそうなものはありますか?」と尋ねてくる。その扱い方はまるで、風邪を引いた幼子のようだと少し気恥ずかしくなったが、今はこの心地よさに浸っていたかった。

「食事はいい……」
「何か食べないとよくなりませんよ。粥でもいかがです?」
「決まっておるなら初めから聞くな」
「あら、肉まんがいいとおっしゃるならそれでもいいのですよ」
「粥でよいわ」

 司馬懿の返事にくすっと笑ったなまえは、それでは取って参りますね、と一旦部屋を後にする。残された司馬懿は寝台に腰かけ、彼女が片付けた竹簡の中身を確認し始めた。

 そしてやはり、なまえは決して“使えぬ凡愚”などではないと思った。ここしばらくは後任の女官の仕事ぶりを見ていたから、まざまざとその違いを感じさせられる。おそらくは曹丕の計らいで彼女が司馬懿の分の仕事をやっていたのだろうが、流石に半年間ここでしごかれただけあって、文句のつけようがない出来だ。これほどまでの人材を他所へやるのは正直惜しい。どうにかならぬものか。
 そう司馬懿が考え始めたところで、すっと部屋の扉が開いた。

「ですからご無理はなさらないようにと申し上げたはずですが……」
「無理などしておらぬ。それにいつまでも寝ておるわけにはいかぬわ」

 盆の上に小鍋と取り皿を乗せたなまえは、こちらを見るなり咎めるような声を出す。それをいつもの癖で鼻で笑った司馬懿は、すぐさま自らの行動にばつの悪い思いに駆られた。なまえは司馬懿のことを想って言ってくれているのだ。いつもならばお節介だと突っぱねられようが、倒れたばかりでは説得力の欠片もない。粥をよそった器を差し出され、受け取った司馬懿は大人しくそれを口に運んだ。

「おかわりはまだまだありますからね」
「……貴様がそう甲斐甲斐しいのも、曹丕殿の命令か」
「半分そうで、もう半分は私の意思です」

 なんとも気になることを言いながら、なまえは微笑むだけできちんと説明しようとはしない。なんだか久方ぶりの温かい食事であるような気がして、司馬懿はもくもくと匙を動かした。そしてふと、倒れる前にきちんと彼女に謝れたのだろうか、と考える。

「……なまえ、まだざっとしか見てはいないが、この仕事悪くない出来だ」
「えっ?」

 一応謝る前の流れとして意を決し褒めたつもりだったが、なまえは嬉しそうな顔をするどころか不思議そうな顔をする。そして今度は何故か不安そうな表情になってこちらをまじまじと見た。

「だから出来ていた、と言っておるのだ」
「……司馬懿様、やっぱりお加減が優れないのですね」
「なぜそうなる!」

 人が真剣に話しているのに茶化しおって……と言いたくなるも、残念ながらなまえは至って真面目な雰囲気で。
 司馬懿はそれほどまでに普段褒めていなかったのかと、自分のことながら呆れざるを得ない。勝手に人の額に手を置いて熱を測っている彼女の腕を掴むと、深いため息をついた。

「……その、張コウ殿に言ったあの言葉のことだが、全て真に受けてくれるなよ」

 本当に迷惑をしていれば、いつだって自分付きの女官から外すことだってできたのだ。

 目を逸らして呟くように紡いだ言葉に、なまえが微笑んだ気配がした。

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