あぁ、やっぱり本当に嫌われてたんだ。

 司馬懿の言葉を聞いた途端、頭の中が真っ白になって、目が合ったのに挨拶もせずに駆け出してしまった。礼にうるさい司馬懿はきっと、あの態度を不愉快に思っただろう。いや、もしかすると逆に嫌いななまえに挨拶をされた方が不愉快だろうから、これはこれでよかったのかもしれない。

 とにかく、聞いてしまった以上はその場から逃げるしかなくて、なまえは渡すはずだった竹簡を持ったまま走っていた。廊下を走るのははしたない、なんてそんなことどうだっていい。それよりも想像していた以上に傷ついてる自分に驚きを隠せなかった。

 あの程度の罵倒、慣れたはずじゃなかったのか。他の女官にはもっと物理的に酷いことをされたじゃないか。
 それなのに、今更あれくらいで悲しくなるなんて馬鹿げている。やがて息も切れ、どうしようもなくなったなまえは、人目を忍ぶ様に書庫に逃げ込んだ。

 何かあった時は、ここに逃げ込むのが癖になっている。さすがにびしょ濡れの時は入れないものの、埃臭い書庫に好んで近づくものはいないし、棚の陰など隠れる場所は多くある。竹簡を胸に抱くようにしてしゃがみこんだなまえは、深呼吸とも深い溜息ともつかない声を漏らした。


 司馬懿の元から離れて一週間。
 量は以前より幾分減ったものの勝手の変わった仕事に忙殺されながら、それでも彼のことは事あるごとに気にしていた。
 というのも司馬懿はとかく自分の身体を省みないたちであるし、後任の女官の精神面も心配される。そのうち後任までもが辞めてしまったら、彼のことだ。自分ひとりでもやると言いかねない。かと言って声をかけてもきっと突っぱねられるだろうし、なまえはただひたすらに心配することしか出来なかった。

 いくら厳しくても、右も左もわからぬところからここまでなまえに仕事を教えてくれたのは司馬懿だ。恩もあれば、唯一会話らしい会話をしていた相手でもあるので情もある。
 しかしそんななまえの想いはどうやら一方通行だったらしく、向こうはなまえを迷惑に思っていたようだ。ふっ、と思わず、自嘲めいた笑みがこぼれる。

 その時だった。

「なまえ、どうせここにおるのだろう」

 書庫の中に響く声。間違いようがない、司馬懿が追いかけてきたのだ。まさか来ると思っていなかったなまえは肩を跳ねさせ、そしてどうしてここがわかったのかと不思議に思う。けれどどうせこの竹簡を渡さなければ戻れないのだし、別に泣いていたわけでもないので顔を見られたとしても平気だ。

「……はい、なんでしょう」

 だが、いくらそう自分に言い聞かせても、先程の言葉が頭から離れない。声が少し震えるのを感じながら、なまえは恐る恐る姿を現した。

「やはりここにおったか」

 正面から近くで見た司馬懿は、張コウが言うように本当に顔色が悪い。目の下にはわかりやすく隈ができているし、いつもの刺々しい雰囲気が気だるさにとって代わられている。どういうわけか司馬懿はしばらく無言だったが、やがてなまえの持つ竹簡に気がつくと眉を上げた。

「それは……私への竹簡ではないのか」
「え、はい。そうです」
「呆れたわ。渡さずにして逃げる馬鹿があるか」

 申し訳ありません、と謝りながらなまえは、だから彼は追いかけてきたのか、とどこか安心するような悲しいような複雑な気持ちだった。おずおずと竹簡を差し出し、受け取られると沈黙に耐えきれなくなる。とっとと礼を済ませ、書庫を出ようとした。そのなまえの腕を、何を思ったか司馬懿はがしりと掴んだ。

「っ、司馬懿様?」
「……待て。先程の話、聞いていたのであろう」

 否、とは言えない。あの時彼とはばっちり目があってしまったから。
なまえは小さく頷くと、困ったように眉尻を下げる。司馬懿が何を言いたいのか、この行動の意味は何なのか、それがわからなくて掴まれた腕が冷たい。

……冷たい?

 およそ人肌とは思えぬほど冷えきった司馬懿の手に、なまえの意識は一瞬にしてそちらに逸れる。が、司馬懿は構わず何やら話続けていた。

「その……さっきの話はあれだ。貴様は凡愚ではあるが、いなくて全く清々するかというとまぁ……それは……。叱る相手がおらぬと言うのも調子が狂うというか……」
「司馬懿様、」
「何だ貴様は、人の話はちゃんと聞かんか。おっと……」

 からん、と軽い音を立て、司馬懿の手から竹簡が滑り落ちる。「あっ……!」そしてそれを拾おうと屈んだ司馬懿の身体が目の前でぐらりと揺れて、なまえはとっさに彼を抱きとめようと動いた。

 が、しかし、女の身では脱力した司馬懿を支えることなどできない。押し倒されるように下敷きになり、背中を強く打ち付けたが、とりあえず二人とも怪我はないようであった。

「司馬懿様、大丈夫ですか?」

 声をかけ、上から退けてもらおうと思ったなまえは、倒れ込んだ司馬懿がぴくりとも動かないのを見て、その表情に焦りの色を浮かべる。

「司馬懿様?もし、司馬懿様?」

 どうしよう。
 あの顔色の悪さとふらつきからして、目眩か何かを起こして気絶してしまったのだろう。しかし、押しやって抜け出すのも一苦労だし、抜け出したとしてもとてもじゃないがなまえ一人では彼を運べない。

 重さに耐えつつ途方に暮れていれば、まるで図ったかのように、書庫の入口の方でなまえを呼ぶ声がした。

「そ、曹丕様!私めはここでございます!」
「探したぞ、なまえ。どうした、そんなに切羽詰った声を出して……おや、」
「お手をお借りしたいのです!」

 おそらく遣いに出したものの、帰りが遅いなまえを探しにやって来たのだろう。それでもわざわざ曹丕が来ることはないのだが、今回の届け先は司馬懿。もしなまえがしつこく嫌味を言われ続けていれば、並の女官や文官では救い出すことができない。

「……ふむ、仲達も困った男だ。待っていろ、今退けてやる」

 曹丕は初め、折り重なる二人を見下ろし驚いているようだったが、やがて状況を把握したらしく、ため息混じりにそう言った。

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