なまえが曹丕付きの女官になってから、一週間後のこと。
 もはや苛立ちすらも通り越し、慣れぬ環境と捗らない仕事に疲労困憊だった司馬懿は、後ろから近づいてくる軽やかな足音に声をかけられるまで全く気が付かなかった。

「おや、司馬懿殿。随分と、いや、いつにも増して顔色が悪い! 睡眠不足は美容の大敵。美しくないですよ」
「……なんだ、貴様か」

 後ろから正面に回り込んできた張コウに、嫌でも足を止めざるを得ない。正直、元気な時であっても彼の相手は疲れるので苦手だったが、今は本当に会話をするのも億劫である。それでも騒々しい、と一言吐き捨てるのを忘れず、司馬懿はお節介な張コウをかわして歩を進めようとした。

「いけません、司馬懿殿。仕事を頑張りすぎるのも考え物ですよ。美は規則正しい生活からです!」
「生憎私は貴様と違って、美以外に考えねばならぬものがあるのでな」
「いいえ、美だけではありません! 軍師と言えど身体が資本です。なまえ殿はどうされたのです? 彼女がいれば、あなたがここまでなることはないでしょう?」

 ひらりひらりと舞うような動きをする張コウに進路を阻まれ、司馬懿の眉間にわかりやすくしわが寄る。しかも今一番触れられたくない話題にむかむかとしたものがこみ上げてきたが、まだ司馬懿は冷静さを装うことを忘れてはいなかった。

「……そうか、貴様は遠征に出ておったから知らぬのだな。なまえは今、私の元にはおらぬ」
「はて、ではいずこに」
「なまえは曹丕殿付きの女官だ」

 司馬懿は自分で言っておきながら、思わぬ声の調子の低さに驚いた。本当にここのところ疲れているのかもしれない。
 一方、なんと! と大げさに驚いて見せた張コウはというと、眉を八の字の形にして神妙そうな顔つきになった。

「あぁ、なんと嘆かわしいことでしょう! 私の知らぬ間に愛する者たちが引き裂かれているとは!」
「……貴様の妄想に付き合うつもりはないが、私の体調が芳しくないことは認めよう。わかったからそこをどけぬか」
「このままでよいのですか司馬懿殿。なまえ殿がいなくなってはお寂しいでしょう。しかし愛に破れ打ちひしがれているとなると、そのやつれ具合もなかなかに美しい!」
「ええい、いい加減にせぬか! 私はなまえなんぞいなくなって清々しておるのだ!」

 本当に、大声を出しただけでも頭痛がする。ここのところ徹夜や食事を抜くことが続いており、体力的にそろそろ限界なのだ。だから張コウが言う身体が資本、というのは実に正しい意見なのだが、反面耳に痛い内容でもある。
 怒鳴られた張コウはというと目を見開き、それからぽつりと「なまえ殿……」と漏らした。

「そうだ、なまえという役に立たぬ凡愚をずっと抱えていたこちらの身になってもみろ。今は逆に仕事が捗り過ぎて、ついつい夜更かしをしてしまっているだけだ」
「いえ、そうではなくて、そこに……」
「は?」

 確かに張コウの視線は、司馬懿を通り越してその後ろに注がれている。まさか、と思って振り返れば、廊下に立ち尽くしていたなまえと目が合った。そして目が合うなり、彼女は弾かれたようにその場から駆け出した。

「あ、おい、なまえ!」

 咄嗟に名前を呼ぶが、彼女は止まらない。走り去っていく背中がどんどん小さくなっていくのを司馬懿はただ呆然と見送るしかなかった。そしてそんな司馬懿の肩は慰めるようにぽん、と叩かれる。

「……司馬懿殿、今のは流石に酷すぎますよ」
「ちっ、本当のことではないか」
「ちゃんとなまえ殿に謝ってくださいね」
「な、なぜこの私がそのような……!」
「謝ってくださいね」

 張コウはもう一度念を押すと、ひらりひらりと去っていく。ふん、と鼻を鳴らした司馬懿はそのまま歩き始めたが、やがて二、三歩進んだところで足を止め、

「……ちっ、本当に間の悪い奴よ」

 なまえが走り去っていった方向へと踵を返した。

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