そろそろいい時間だろう。
 仕事にはとにかく没頭しがちななまえではあるけれど、司馬懿の所にいたときからの癖でお茶を淹れるべき時間帯、というものはなんだか身に染みついてしまっていた。特に司馬懿の場合は放っておくと昼食を抜いたりするので、昼下がりのお茶の時間は軽食も出さねばならない。別に本人から直接そう指示をされたわけではなかったが、倒れられては困ると見かねたなまえが用意したのをきっかけに、いつの間にかそれが当たり前になっていた。

 そういえば、彼は今日ちゃんと昼食をとったのかしら。いや、きっといつものように抜いているに違いない。なまえは曹丕の分のお茶を淹れつつ、二刻ほど前に会った司馬懿のことを考えていた。

「曹丕様、少しお休みください」
「あぁ、すまぬな」

 なまえがそっと茶を机の上に置くと、気づいた曹丕が頷いて湯呑を手に取る。そして再び自分の仕事に戻ろうとしたなまえに向かって、お前も一緒に飲むといい、と言った。

「……では、お言葉に甘えて」
「ふ……下手をすると私よりお前の方が仕事をしていそうな勢いだ」
「責任が違いますから。数はあっても、私の仕事は誰にでも務まること。曹丕様の方がお疲れでしょう」

 それに正直、司馬懿の所にいたときの方が忙しかった。普通の執務に加え、真面目な性格の彼は一つのことをやるのにも膨大な資料を吟味して行う。その資料を揃えておくのも含めてこちらの仕事で、執務室と書庫とを行ったり来たりするのは日常茶飯事。失敗をすれば当然雷を落とされるし、それだけでなく司馬懿の体面にも関わる。曹丕も自尊心が強そうだけれど、司馬懿のそれは本当に強く、傷つけられようものなら暫くはちくちくと嫌味を言われ続けるのだ。

 なまえは両手で湯呑を包むと、自分も乾いた喉を潤した。そして少しぬるかったかしら、なんてぼんやり考える。忙しい司馬懿はすぐに飲むことが多く、さらには怒鳴ったり嫌味を言ったりと声を出すことが多いので、意外とぬるめなお茶が好きなのだ。しかし曹丕付きになったからには今度は曹丕にあわせなければならない。「ごめんなさい、少しぬるかったですね」確認するようにそう問えば、曹丕はこちらの心を読んだかのように笑みを浮かべた。

「仲達のことを考えていたのか」
「え、あ……まぁ、司馬懿様はいつもぬるいお茶を好まれましたので」

 曹丕に指摘され、自分でも無意識だったことに動揺する。そしてなぜか言い訳をするように返事を返すと、すぐに居心地の悪い思いに駆られた。そういえば先ほどから、頭の中に浮かんでくるのは彼のことばっかりだ。

「きっと奴隷根性が染みついているのですね」

 なまえはなんとか場を取り繕うように、彼女にしては珍しく冗談を言ってみせた。

「ほう、仲達はやはり人遣いが荒いのか」
「ええ。司馬懿様は自分遣いも荒いですけれど」

 褒めてもらったことなんて、数えるほどもない気がする。では褒められるようなことをしたのか、と問われれば唸るしかないが、曹丕の場合はささやかなこと―─たとえばこういったお茶汲みでも─―反応を返してくれる。そこでまた、豚もおだてりゃと揶揄してきた司馬懿のことを思い出した。

「曹丕様、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「……なんだ?」
「司馬懿様は、その……私のことがお嫌いなのでしょうか」

 彼が厳しくて気難しいのは、城中のみなが知っていること。だが、なまえほどまでに所構わず貶されている人物はそうはいないような気がする。女官という立場ゆえによからぬ噂が立ちやすいけれど、彼はなまえとそんな噂が立つことすら嫌悪しているのではないか。そう思えるほどまでの徹底した貶しぶりだった。

 しかも今回、やっと司馬懿の元から離れてもう噂が立つ心配がなくなったというのに、顔を合わせればいつもの嫌味ばかり。流石のなまえも、これには傷つかざるを得なかったし、そのせいで半ば逃げるように彼の部屋から出てきた。これから先もまだまだ彼の執務室へ竹簡を届ける機会もあるだろうに、なんて気の重い……。
 自分で質問しておきながら、そうだと言われればさらに会いづらくなるだろうなと暗い気持ちになった。

「なまえよ、その前にお前は仲達をどう思う。あれはどんな男か」
「そうですね、司馬懿様は……他人と上手くやっていくのが苦手な方であるような気がします。私もあまり、人のことは言えませんが」
「ならばそれが答えよ」
「え?」

 なまえはゆっくりと瞬きをし、目の前の曹丕を見つめたが、彼は相変わらず不敵な笑みを浮かべたままでそれ以上は何も言わない。
 そうか……と、なまえは一人納得すると、空になった茶器を片付け始めた。

 あぁ、どうして気が付かなかったのだろう。
 そもそもなまえだって女官仲間の誰にも好かれていない。それなのに、とりわけ好き嫌いの激しい司馬懿がなまえのことを快く思うはずがないではないか。

 人付き合いがうまくないもの同士、うまくいくわけなんてなかったのだ。

 なまえの頭に浮かんだその考えは、彼女の心に一抹の寂寥感と翳りを与えた。

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