「…隊長?」 船縁に腰掛けたエースの背中を見つけたリンは、しんと静かな夜の空気に戸惑いながらも声をかけた。すぐに振り向いた影は見えても、その表情を確認するには、やや月明かりが弱い。 「……たいちょ、」 「おいで、リン」 もう一度呼ぼうとした声を遮って囁かれたその声色は、リンの顔をほんのりと赤く染めさせる程度には甘みを含んでいた。黙ったリンは何を言うこともなく、彼の言葉に従うまま、そろりそろりと影に歩み寄った。 「リン」 「あ、」 あと少しで手が届くというところまで来て、こちらがそうする前に腕が伸ばされ、腰を捕われそのまま引き寄せられた。つんのめるように倒れ込んだ大きな胸から慌てて顔を離し、見上げた先にようやく見えた彼の顔。つい先程優しげな声で私の名前を呼んだその唇が、拗ねたような形をしている。リンが首を傾げると、エースはリンの前髪を撫で付けながら言った。 「お前はどうもすぐに俺の名を忘れるようだな」 「っ…」 思わずリンが閉口する様を、エースはほんのりと笑みを乗せた表情で見下ろしていた。そして、彼女が何か言う前にリンのわきの下に手を差し込むと、咄嗟に固くなった体をひょいと持ち上げ、自分の隣に腰掛けさせた。 「えっ…」 「夜風が気持ちいいだろ? 時々こうするんだ」 驚くリンに構わず、ぐぐっと伸びをしたエースが笑う。拍子抜けしたリンがぽかんとそれを見た後、諦めたように唇に笑みを浮かべ、軽く乱された髪を耳に掛けた。 「…星がないですね。こんなに晴れてるのに」 「まあ、たまにはな。…いいもん見せてやろうか」 首を傾げるリンに微笑み、暗い夜にエースは左手を翳す。その指先から零れ出したのは、星屑のような、小さな無数の光だった。それは海へ落ちることなく浮き上がり、蛍のように辺りへふわふわと散らばって甲板を照らす。互いが互いの顔をはっきりと見たのもこの時だった。 「…ほたるび?」 「正解。こういう使い方もあるんだ、便利だろ?」 嬉しそうに言うエースを、リンは柔らかく微笑んで見詰めた。我に返ったようにハッとなったエースは、照れ臭そうに顔を赤らめ、被ったハットの鍔を引き下ろす。 「な…なあリン」 「はい」 「まだおれが怖いか?」 リンは黙した。彼が炎人間で、私が雪女で、エースはそれを気にしているのだろうということをすぐに悟る。そして少し沈黙してから、静かに言った。 「私、気付いたんです」 気恥ずかしさに目を逸らしていたエースが再び顔を上げると、リンは既にエースから目を離し、漂う光のひとつを視線で追っていた。 「あなたを火拳というだけで拒絶するのは、村人たちが私や母を雪女というだけで迫害するのと同じだわ」 だって実際あなた、とても優しい人だもの。鼻先まで近付いたその小さな炎に手を翳し、リンは眩しそうに細めた瞳でエースを振り返った。エースははにかむと彼女の白い手に自分のそれを乗せる。驚いたように目をしばたかせたリンは、震える息を細く吐き出して、蛍火、綺麗ですね、と呟いた。エースは答えずに二度瞬きする。静かに首を傾げ、リンとの額の距離を詰めた。 「…エ、ース、たいちょう、」 「ん…?」 「あ…つい、です、手…」 「お前の手は、冷たくて気持ちいいよ」 「ぁ…、っ」 重なる唇にもう温度を感じる余裕がなくて、リンは潤んだ瞳をきつく閉じたし、エースはそんな彼女に心中で笑って、その首筋を軽く撫でた。数秒としないそのキスに、酷く息の上がったリンの顔を覗き込み、エースは破顔する。 「お前、唇はあったけーんだな」 「え、えーす隊長はっ、やっぱりどこも熱いです」 「嫌か?」 「…溶け、そうで、」 「ははっ…溶けちまえ、スノーフェアリー」 合わせる呼吸に胸を震わせたのはどちらか。曖昧に微笑した雪女の少女は、重なった青年の火拳にそっと指を絡め、彼の愛を受けとめた。溶けてしまってもいいかもしれないと、そんなおかしなことを考えながら。 20100217/fin. |