snow fairy | ナノ
丁度一時間経ったのを確認して、マルコは彼女の部屋を訪れた。頑なに閉じた扉は沈黙したままで、何となくノックが躊躇われる。けれど、断りもなく女の部屋へ立ち入るという無礼も遠慮したい。おれは軽く握った右手を上げて、数回手の甲をぶつけた。

こん、こん。

ノックしても返事がなかった。眠っているのだろうか、と思って、もう一度軽いノックを重ねながら声をかける。

「あー…リン? 起きてるか?」
「……どうぞ。もう開くと思います」
「……?」

しばらくしてから返された声を不思議に思いつつも、ノブに手を伸ばす。握ったドアノブはひんやりと冷たくて、鍵穴は何故か結露していた。首を傾げながらノブを捻って扉を開くと、すぐ下の床がしとどに濡れている。ああ、そういうことかと、小さくため息を吐いた。
おれは部屋に入って静かに扉を閉めると、小さなソファに虚ろな顔で横たわっているリンを見据えた。

「…鍵穴を凍らせなくたって、誰も無理に押し入ったりなんかしねぇよい」
「………」
「それにこれじゃ、自分までしばらく外に出られなかっただろい」
「…船はもう、出ましたか」

ぽつんと呟いた彼女の声は、いつものように凛とした冷たいものだったけれど、疲労のような、憂いのような色も含んでいた。ああ、ついさっき、と頷くおれの返事を聞くと、リンはふうと息を吐いて肩を揺らす。そこで初めて、仰向けた彼女の腹の上に乗っているのが、エースの落としたと言っていたテンガロンハットだということに気付いた。リンは伏し目がちにハットをしばらく撫でながら、やがて独り言のように言った。

「…酷いことをしました」

ゆっくりと優雅に瞬く。口調は淡々としていて、けれどどこか、傷を負った小鳥のように痛々しい。おれはじっとその様子を眺めながら、んん、と喉の奥で低く唸る。

「まあ、かなりへこんでたな、あれは。何があったか、おれは知らねェが」

瞬間リンは傷付いたような顔をする。顔を上げたリンがようやくおれの目を見た。

「隊長のこと、嫌いな訳じゃないんです」
「おれも一応隊長だよい」
「…エ…エー、ス、隊長…に、私、顔も見たくないと言いました…」
「…そりゃまた、辛辣な」
「でも違います、あの時は興奮してて…私が怖いのは、エース隊長じゃなくて、炎なのに」

炎、と口にするリンの瞳が歪んだ。初めて彼女が船に来たときの、冷え冷えとした圧力のようなオーラが今は身を潜めている。ぐっと唇を噛むリンに、おれはゆっくりと歩み寄って、すぐ側まで行くとソファに手を置いて膝をついた。

「…それは、雪女だからか?」

リンのけだるげな目がパッと大きく開いた。驚いた顔が、すぐに淋しげな微笑に変わる。はは、と零れる乾いた笑い。

「やっぱりご存知でしたか」
「憶測でしかなかったよい」
「エース隊長に教えたのもあなたでしょう?」
「ああ」

そうですか、とリンはハットに視線を下ろした。少しの間じっとそのまま動かなかったけれど、確かに、とまた静かに唇を動かす。

「…一理、あります。雪女は炎に近付けない。でも私にとって、それは大した理由ではありません。私の父は、人間ですから」
「ハーフなのかよい? それであれだけのことが出来るってことは、お袋さんによっぽど強い力があったんだな」
「母は…優しい人でした。母が雪女らしいところを、私はあまり見たことがなかった…」

昔を思い出すように、リンの表情は微かに愛おしむような柔らかさを纏った。けれどおれは、しんと心の奥が冷え切るような感覚に陥った。


『優しい人でした。』


「…それかい?」
「…え…?」
「お前が、炎が怖い一番の理由」

不意をつかれたように、戸惑った顔でリンはおれを見つめた。おれは冷静に彼女を見つめ返したつもりだったが、その大きな瞳に写ったおれの眉間には、僅かにシワが寄っていた。

「…ど、どういう…」
「北の生まれだろい?」

困惑したままのリンは、おれの指摘に更に怯んだように頷く。おれの予想はほぼ確定する。彼女にとって、あまりに残酷な、過去である。

「風の噂で聞いたことがある。ノースの雪女迫害」

リンの深い黒目がきゅっと小さくなった。赤い唇がわなないて固く引き結ばれる。部屋の空気がひやりと下がったのは、きっと気のせいでは、ない。

美しい雪女の少女。下を向いた睫毛が、目の前でぱたぱたと悲しげに揺れた。

20100906
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