「…リン…、」 乱れた息を整えてから、扉を押さえて部屋をそっと覗く。声をかけるというよりは独り言に近かったそれに、ソファに突っ伏した華奢な体は大きく跳ねた。強く怒鳴りつけた訳でもないのに、はじめは何事にも動じなかった少女が、おれの呟きに過剰反応している。悲しくて堪らなくなった。 おれを怖がらないでくれ。 「…りに、…て」 「え…?」 「ひとりに…、して」 「……断る」 ようやく見ることの出来た彼女の瞳には、激昂の炎が踊っていた。臆することなく見つめ返すと、リンの丸められていた体がゆらりと伸び、立ちあがる。反り返るほどの背筋。けれど肩は震えている。 「出ていって!」 「リンッ」 「隊長の顔なんて見たくない!」 パシン、と空気が凍りついた。唐突に全身が粟立つ。怒っている。違う。恐怖を怒りで覆い隠している。眉間に酷く皺が寄っていた。今にも泣き出しそうなのに、側にいることを、彼女は断固として許してくれない。 「なんで…、」 もはやその問いにも答えてはくれなかった。激しく肩を揺らす彼女の手には、いつの間に小さな氷柱が握られていた。つい数十分前に、無数の男たちの息の根を止めた彼女の凶器だ。おれの顔からはサッと血の気が引いた。 「…っ、おま、リン、マジかお前!?」 「今すぐ! ここから! 出ていけえええぇぇッ!!!」 「っだああああああ!!」 ひとりで一度に10人を相手に雪合戦をしているように、容赦なく浴びせかけられる氷柱から逃れようと身を翻した瞬間、ぱさりと頭からテンガロンハットが落ちた。気付いて拾うする暇もなく、氷柱を避けているうちにあれよあれよと部屋の外まで誘導されたかのように追い立てられ、その後はもう、目の前で見せつけるようにバンと扉を閉められた。氷柱ならおれの炎で溶かせたはずだ。けれど、立ち向かってはいけない気がした。彼女を逆上させたい訳じゃない。 「…くそ…」 今しがた閉められた扉の、すぐ横の壁にドンと背中を預けた。息を潜める。先ほどのドタバタが嘘のように、部屋は怖いほど静かだ。どうしているのだろう、リンは。…泣いてはいないだろうか。 「―――…」 「…事態は深刻、てかい?」 顔を上げると、両手を腰に当てて、やれやれと首を傾げているマルコがそこにいた。完全に意気消沈していたおれは、気を奮い立たせる気力もなく、沈んだ声の調子のまま言った。 「…マルコ…お前も来たのかよ」 「帽子はどうしたよい、エース」 「落とした。ここで」 「そりゃあ、また」 ぴったりと閉め切られ開く気配さえ見せない扉を見やりながら、マルコは肩を竦めた。そんな彼の様子を見ながら、おれはふと思いつく。 「そうだ、マルコ…お前がついていてやってくれないか」 「あン?」 「あいつは、…おれの顔なんか見たくねェんだってさ」 「………」 黙ったままおれを見詰めるマルコと視線を合わせたけれど、すぐにいたたまれなくなって逸らした。マルコは深く息を吐き出してから頷く。 「わかったよい、少し落ち着いた頃に声をかける」 「…サンキュ」 「…どこ行くんだよい?」 「甲板。進路と時間確認してくる」 ゆらりと壁から身を離し、肩越しに手をひらりと振って甲板へ続く廊下を進んだ。マルコの無言の視線を背中に感じたが、振り返る代わりにハットの乗っていない無防備な頭をがしがしと掻いた。マルコがいれば大丈夫だ。けれど、彼女に怒鳴られた言葉に未だ胸がきりきりと痛んでいる。 「顔も見たくない…、か」 無意識に呟いていた。はじめて「嫌い」だと言われたときより、明らかにダメージがデカいことを自覚していた。それだけ自分の中で彼女の存在が肥大していたということだろうか。出ていけと叫んだリンの怯えるような瞳を思い出して、おれは堪らずに拳で壁を弱弱しく殴った。 20100820 |