「ラビ、起きてる?」 まだ陽も昇りきらない午前六時、こんこん、ノックしたラビとブックマンの部屋のドア越しに、ばさばさと紙が派手に翻る音がした。少し待って開いた扉から覗いたのは、未だに寝癖が残った赤い髪の毛。それをくしゃくしゃ掻き回す大きな手、次に見えたのは細まった瞳。 「…お、リサちゃんおはよ。ご用さ?」 「あ、おはよう。あのね、少し翻訳をして欲しいの。時間平気?」 「翻訳?ん、だいじょーぶ。何の?」 「次の任務に参考になりそうな文献調べてたんだけど、ちょっと読めない言語があるの。量が多いから、悪いけど書庫まで来てくれる?」 「りょーかいさ」 ばたんとラビはドアを無造作に閉めると、行こ、と早速歩き出した。礼を言いながら彼の隣に並ぶと同時、くあっとラビが大きく欠伸をする。 「寝不足?」 「んー、昨日は遅かったからなあ。隈とかできてね?」 「あ、ちょっと」 目をぐりぐりと擦るラビは、きっとまた夜遅くまで記録していたんだろう、相当眠たそうだ。呼び出したりして悪いことしたな… 「そういや、次の任務先ってドコさ?」 「えと、シリア。私全然知らない国で」 「あーそうさなぁ。そういやあそこって、最近アクマが多発したって聞いたな」 「うん。アクマ除去が私の仕事。明日から何だけどね」 「ふうん…ま、ムリは禁物さ?」 「ありがと。ラビこそちゃんと寝なきゃダメだよ」 「そうしたいのは山々だけどなー、っふあ、ジジィホント弟子使い荒―――っどわああああ!?」 「ひッ!?ラ…っ」 一瞬、何が起きたか解らなかった。突然聞こえた断末魔に思わず立ち竦み、はっと下を見ると、遠い地面でラビが大の字に倒れていた。私の足元には階段。欠伸で前方不注意だったラビが、これを踏み外したらしい。 「らららラビっ!」 一段跳びで階段を駆け降りなんとかラビを抱き起こし、しかし呼び掛けても応答がない。これって、ヤバいんじゃ。頭打ってたら死んじゃう…よね…? 「きっ…きゃああああ!だ、誰かっ、誰か来てえ―――っ!」 「…うん、頭に異常はないみたいだね。少し大きなこぶができてるけど」 「ほ、ほんとですかコムイさん…!良かった…」 「全く人騒がせですねラビは」 医療室のベッドですやすやと眠るラビを見下ろしながら、しかしアレンくんはほっとしたように溜め息を吐いた。私の叫び声を聞き付けて彼が意識を失ったラビをここまで運んできてくれたのだ、この場にはいないが、神田も(さっさと修練場に戻ってしまったけど) 「疲れてるみたいだったし、暫くは起きないかもね。どうする?リサちゃん」 「起きるまでついてます。もともとは私のせいだから」 「そう、じゃあ後は頼むよ」 「お忙しいのにすみませんでした」 「リサ、僕も朝食行きますね」 「あ、ごめんねアレンくん。ありがとう」 コムイさんとアレンくんが退室すれば、カーテンの引かれたベッドには私とラビだけが残った。医療室に他の患者はいないようだ。安らかな寝息が静寂の空間を満たす。 「ラビ、ごめんね…」 ふわふわした赤毛を撫でながら、私はぽつりと呟いた。翻訳なんて、自分で辞書使って頑張ればよかった。ちゃんとラビを寝かせてあげればよかった。 ずっとここに居るんだったら、書類とか持ってきちゃおうかな。あとは冷たいレモンティー。ラビが起きたらちゃんとごめんねって言わなきゃ。 「…んんー…?」 「!あっ」 時刻は午後一時を過ぎた頃。昼食のサンドイッチをかじりながら辞書をパラパラ捲っていたら、ずっと眠ったまま微動だにしなかったラビが、初めてもぞっと身動いだ。寝返りをうってこっちを向いた彼の顔。辞書を脇の机に置いてじっと見詰めていると、閉じられていた瞼がそっと開かれて、何度か瞬きを繰り返した。 「起きたんだね。頭は平気?」 「………」 「お腹空いてる?サンドイッチならあるけど」 「………」 いくら話し掛けてもラビはぼうっとした無表情のまま私の顔を見るばかりで、まだ覚醒したばかりで頭が働いてないのかなーと思ったら、そのときラビが漸く口を開く。 「ここ、どこさ…?」 「ホームの医療室だよ」 「…オレ…何でここに…」 「覚えてない?階段から落っこちて、アレンくんと神田が運んでくれたんだよ」 手を伸ばし頭を撫でる。眠かったのに呼び出したりしてごめんね、謝ろうと口を開いたら、 「あの、ごめんねラ「じゃあオレは誰?」 ぽかん。ビ、まで言い損なった私は、予想外の質問に固まった。 「…え…?も、もーやだなラビ、からかってるの?」 「『ラビ』?ラビっていうんさ?オレ」 「…な、…あっもしかして怒ってる?だからごめんって、」 「お前は誰さ?」 「………」 …嘘。うそうそうそうそウソ 「わ、私は、リサ…」 「へぇ、リサちゃんか。べっぴんさんさね、宜しく」 にっこり。人懐っこいその笑顔は、私の背に冷や汗を伝わせた。 「こッ…」 「こ?」 「コムイさああああん!」 私は本日二度目の叫び声を上げ、次の瞬間には教団の廊下を駆けていた。走れリサ、目指すは室長室、幽閉された巻き毛プリンセスの元へ。 再びコムイさんを呼び出した後ラビの昼食にとAランチを抱え医療室へと戻れば、コムイさんは苦笑を浮かべながら腕組みしてそこに立っていた。 「…コムイ、さん…?」 「えっ、ああ、おかえりリサちゃん」 「ラビ、どうしちゃったんですか?」 「う、うーん…さっき異常はないって言ったけど、少し記憶障害を起こしてるみたいだね」 「やっぱりラビ、頭おかしくなってるんですか?」 「そういう言い方は…うんまあ、記憶が所々欠けてるね」 「…? コムイさん随分落ち着いてますね」 「よくあるんだよ、教団では、精神的な問題でショックを起こして記憶を失ったりとか。職が職だからね…」 「なるほど…ラビは階段から落ちて頭ぶつけただけですけどね」 「……。まあとにかく、本当に脳自体に異常は全くないから、記憶も元に戻るでしょ。リサちゃんはそれまでその手伝いをしてあげて」 「はい。解りました」 この会話をしている間にも、ラビは鉄槌を指でくるくると弄んだり、部屋を見回したりと落ち着きがなかった。まるで何もかもが初めての世界に迷い込んだ子供のようだ。 「…というわけでラビ、早く記憶戻そうね。コムイさんも帰っちゃったし、えっと何をすればいいんだろう…」 「はいはいっ、リサちゃん質問!」 ぴんと腕を伸ばして挙手するラビに、無邪気なとこは変わってないなと内心くすりと笑う。そうだ、ラビが解らないことを私が教えればいいんだ。記憶の糸口が見付かるかもしれない。 「うん、何かなラビ君。その調子でどんどん質問していこうか」 「ん、でリサちゃんってさ、『ラビ』とどういう関係なんさ?」 「えっ? …あ、え…っと…」 いきなり答えにくいのきたな、と私は一瞬たじろいだ。しかしここで恥ずかしがってちゃ、いつまでたってもラビは戻らない。 「…まあ、その…恋人…みたいな…」 「へぇ、恋人! オレってリサちゃんのこと好きなんかー」 まじまじと好奇の瞳で見詰められて、私は恥ずかしさに思わずフイとそっぽを向いた。しぱしぱとラビの長い睫毛が揺れたのを視界の隅に捉えると、ほう、と感嘆するような溜め息が聞こえた。 「…今のかわいー…。そういうとこにハマったのかも、オレ」 「は、っ!? なななにそれ」 「うん、それも。好きさぁリサちゃんっ」 「うわあっ」 ぎゅ、とまるで子供みたいに抱き着かれて、私は勢い余って背中から倒れ込んだ。好きすきと言われるのはいつものことだけど、これはラビなのにラビじゃない。彼の記憶に、昔の私のメモリーは存在しないのだ。この好きは愛じゃない。そう思うと胸がずきずき痛んだ。 「…あなたのそういうとこ、ラビにそっくり」 「だってオレラビだもん」 ふわりと柔らかい赤の髪を撫で付けると、ラビはふにゃっと楽しそうに笑った。記憶がなくなったっていうのになんとも能天気だ。 「あのさーリサちゃん。リサちゃんはオレのどんなとこを好きになったの?」 「な…何でそんなこと」 「質問してこって言ったのはリサちゃんっしょ? オレがどんな奴だったのか知る手掛かりにもなると思うんさ」 …た、確かに一理ある。じ、と見詰めてくる片方の瞳に貫かれて、私は鼓動が加速するのを否が応にも感じるけれど、彼はラビじゃないと心中で何度も唱えて気持ちを落ち着けた。 「…私、は、…その…」 「うんうん?」 「…ブックマンなくせに、私だけを真っ直ぐ見てくれる目とか」 「うん」 「無駄なくらいのスキンシップは、鬱陶しいって言っちゃうけど、ほんとは嬉しい…とか思うし…」 「うん」 「いつもへらへら笑って言う『好き』もだけど、真剣な顔して愛してるって囁かれたときは、心臓壊れちゃいそうになる」 「うん」 「引き寄せられて、ちょっと唇舐める癖とか、その後の優しいキスとか、普段は絶対言わないけど凄く…す、すき…」 言い切るか否かのうち、肩にラビの手が掛かって、ぐっと引き寄せられた。驚いて目を見開いてしまったのは完全に失敗。ペロッとまるでアイスみたいに唇を舐められて、伏せられた長い睫毛が目前数センチに。重なったそこからいつもの熱。 「…こんな、感じ…?」 「……!」 ぼぼぼっと顔から火が出る思いだった。ふ、と真剣な表情が微笑んで、どきんっと私が目眩を起こしかける直前に。それは突然また向日葵みたいにぱっと無邪気な笑顔に戻り。 「良くできました!」 「…………は?」 がらりと変わった空気に私は着いていけず、ただ驚いてラビの腕の中に収まることを許してしまった。 「お陰でいーこと聞けたさ。お礼に翻訳手伝ってあげる」 「は? え?」 「明日、シリアに任務だろ?」 何でそのこと知ってるんだとラビの顔を見上げると、にっこりと清々しいまでの笑顔で、そこで私は全てを悟った。 「ラッ…あ、あんたまさか…ッ」 「びっくりさせてごめんさ。だって明日から任務なんて言うから、残りの時間リサを一人占めしてたかったんだもん」 この馬鹿うさぎは、記憶をなくしたフリをしていたという訳だ。お陰で私は油断して、恥ずかしい本音を包み隠さずぺらぺらと… 体中の血液が顔に上り、恐らく顔は真っ赤だろうけどいっそのこと今はどうでもいい。 「…っの…いっぺん死んでこ―――いッ!!」 リサの大絶叫は広い広い教団に響き渡り、団員や森の鳥たちを跳び上がらせた。 20080727 つまりはコムイさんもグル |