ぎゅーっと自分の頬っぺたを力一杯つねってみたら、めちゃくちゃ痛くて少し涙が出た。つまりこれは夢じゃないってことだよな。でも夢じゃないなら何なんだろう。パラレル? 幻覚? ワンダーランド? 否、それも違う。どこをどう見たってここはよく見慣れた神田の部屋以外の何物でもなくて、おかしなものを見るほど私も疲れていない。つまりはこれが現実。それが大変受け入れがたいものであるというだけである。私はおっかなびっくりしながらも、ベッドの中でぐっすりと眠る神田の、少し特殊な「耳」に手を伸ばした。ふわふわした黒い、三角形のそれは、神田の頭からひょっこりと二つ覗いていた。触れるとぴくり、震えたので、私は驚いて手を引っ込めた。耳につられたように神田の肩も僅かに跳ねる。う、動いた、温かかった。それはこれが本物だという何よりの証拠だった。神田自身まで反応するってことは、この物体は神田の感覚神経を引いているみたいだ。そもそも、私がこんなこと出来る時点でおかしい。 「…あ…?」 小さく呻いて、漸く神田が目を覚ました。そうだ、感覚が鋭い神田が、いくらホームに居るからって、易々と自室に他人の侵入を許す訳がないのだ。私がこの場に居るというところから普通じゃない。ドアには鍵が掛かっていなかった。いつもの神田じゃあり得ない。 「…んだよ、お前…」 まだ惚けた瞳で私を見上げ、神田は顔をしかめた。ごろりと寝返りを打って、私に背を向けてしまう。あ、尻尾まであった。ってそうじゃなくて! 「か、神田神田っ! 寝てる場合じゃないのよ!」 「ああ…? るせぇよ、俺はまだ…ねみぃ…」 私の手を払いのける神田。決して低血圧じゃない筈の彼が、もう10時を回るというのに、ベッドから出てこようとしない。やむを得ず三角耳をぎゅっと摘まんでやると、「ぅあ!?」と声を張って跳ね起きた。予想以上の反応に面食らっていると、ギラリと鋭く睨まれて、どこから出したんだかと思う素早さで六幻を喉元に突き付けられる。 「てめェ何した…」 「ご、ごめん、案外デリケートなものなんだね…」 「は?」 「これ、」 する、と今度は優しく手を滑らせて親指で擦ると、びくんっと神田の体が震えた。訳がわからないという顔をする神田。手鏡でもないかと探ったがどこにも見当たらなくて、私は慎重に六幻を避けると神田の腕を引っ張り、割れた窓ガラスの前に立たせた。 「…何だこれ…」 「うーん、私が思うに…」 …猫耳? 「ちょ! 神田、待っ、落ち着こう。まず落ち着こう」 「これが落ち着いてられるか! コムイの野郎六幻の錆に…」 「まだコムイさんの仕業って決まった訳じゃ」 「じゃあ他に誰がやったってんだよんな馬鹿な真似!」 「それは多分コムイさんだと思うけど!」 ほら見ろと言って、神田は体にしがみつく私を振り払おうとしていた。これじゃあ勝負がつくのは時間の問題だ。目の前で暴れる黒くて長細い尾を、私は縋る思いで掴んだ。「うっ」と神田は呻き声を洩らして、その場にへたりこんでしまう。凄い効果だな。息をぜえはあと切らし、その様子を見詰めながら私は手を離した。 「お前ふざけんな…」 「だ、だって神田が暴れるから! よく考えてよ、そのまま部屋から出てどこで誰に会うか解んないんだよ! その可愛い可愛い猫耳尻尾をモヤシくんやウサギくんやリナリーに見られてもいいっての!?」 鬼気迫る勢いで捲し立てると、神田は一度驚いたように目をぱちくりと見開いて、次第に難しい顔になっていった。説き伏せた。私は確信する。 「困 る よ ね?」 「…まあ…」 「そうね! じゃあ神田はここにいて、私ご飯持って…もうそんな睨まないでよ、ちゃんとコムイさんのとこにも行ってくるから」 よしよし、と頭を撫でてみたら、「馬鹿にすんな」と手を払われた。凄まれても怖くないのになあ。猫な神田って案外可愛い。 「…ねえ神田、ちょっとにゃあって言「アホか!」 「ああ、やっと効いてきたんだねあの薬」 「やっぱりコムイさんの仕業ですか…」 資料に判を捺しながら、コムイさんは和やかに言った。私は蕎麦定食を手に、乾いた笑いを洩らさずにはいられない。 「いやあ、面白い薬が出来ちゃったからさ。そしたら効果を試したくなるでしょ? 丁度目の前に蕎麦があったからさー」 「確信犯もいいとこですよ。ところでそれは、いつ?」 「昨日の夜かな」 ああ、それなら鍵も辻褄が合う。猫化現象が始まっていた神田は、うっかり鍵をかけるという常習行為を忘れてしまったのだ。 「今神田くんどんな感じなんだい?」 「…耳と、尻尾が」 「ほう。じゃあ、そのうち言葉に猫語が混じってくるだろうね」 「えっ!? そ、それほんとですか!」 がしゃんと思わず蕎麦を机に置くと、コムイさんはにっこりと頷いた。 「面白いでしょ?」 「ええとても!」 「多分夜には心身ともに猫だろうね」 「まあ何て素敵なこと!」 さっきのお願いが実現すると思うと、この胸のわくわくを抑えろなど到底無理な話だ。しかし刹那、一抹の不安が過る。 「…ああでも、神田ちゃんと元に戻りますよね?」 「勿論。明日の朝には全部元通りかな。そうだ、これから神田くんのところに戻るならこれ持っていきなさい」 蕎麦のトレイを再び持ち上げかけた私に、コムイさんが差し出したのは小さな紙袋だった。 「ただいまー神田…」 がちゃりと肩でドアを開くと、神田はベッドにぐったりと寝そべっていた。私にちらりと視線を向けて、気だるげに体を起こす。 「だ、大丈夫? 神田…どこか具合悪い?」 「全く大丈夫じゃないが具合は悪くない」 机がないのは不便だと思う。蕎麦をトレイごと神田に渡すと、黙って神田はそれを受け取って箸を割った。さて私はコムイさんから預かった紙袋の中身を確認しようと、床にそのまま座り込む。 「…お前、それ」 「ん?」 ばりっと封をした袋を開ける音に、神田の猫耳がぴくりと反応した。私が顔を上げた頃には、神田は蕎麦を一口食べただけでベッド脇に置き、するりと降りてきて紙袋に顔を近付けた。 「何が入ってんだ?」 「えと、いや、今から見るとこよ。どうかした?」 「…旨そうな匂いがする…」 すん、と香りを嗅ぐ小さな音。今の神田可愛いなほんとに。でも、美味しそうな匂いなんてしてるかな…? 中に手を入れて見ると、中身はひとつではなかった。そのうちの小さなビニール袋を取り出すと、それに入っていたのは煮干しだった。 「…にぼし?」 結び目をほどくと、私は漸く煮干しの匂いが香ってくるのを感知する。 「あーそっか、猫だから。神田、食べる?」 聞けば神田は何も言わず、私の手から袋を奪った。黙ったまま無表情で煮干しを摘まみだした神田、可愛らしい猫耳のオプション付き。絵面が面白すぎる。 「…おい、何にやついてやがる」 「神田可愛いなーって思っただけよ」 「…はァ?」 憤慨する神田は無視して再び紙袋を探ると、中から出てきたのは。 「…かんだー」 すっかりそっぽを向いてしまっている彼に向けてそれをふらふらと振ってみれば、神田はぎょっとして「冗談じゃねえ!」と叫んだ。所謂これは猫じゃらし。猫には堪らないおもちゃ。後ろ向きな神田を尚呼び続けていたら、ぴくぴくと耳が反応し始めるのを捉えた。 「…にゃんこ神田のやせ我慢ー」 「っ、違ッ…てめ、」 つんつん、と猫の耳を指で小突いていたら、怒りの形相の神田が右拳を上げてぐるりと振り向いた。びくりとした私が思わず手を、猫じゃらしを持った手を庇うように突き出すと、神田はそれに一瞬体をすくませ、ぱしりとそれを右手で払った。 「…え?」 「…!」 私も神田も驚愕した。神田の手が、私の持っていた猫じゃらしを床に押さえ付けていたのだ。そうまるで、猫のように。無意識だったのだろう、神田はハッとして手を引っ込めたが、今しがた起こってしまった事実は取り消せず。そしてやはり内心ではこの上ない羞恥を感じているであろう神田も、体が疼くのかちらちらと猫じゃらしを頻りに気にかけている。 「…あのさ神田…」 「な、なんだよッ」 「抱き締めてもいいかな」 は!? と眉をつり上げる神田に構わず、その男の癖に細過ぎる体を抱き締めた。抱き着いたのではない、抱き締めた。どことなく動揺している神田の手は、どうすべきか判断しかねてふらふらと宙をさ迷っている。しかしどこか諦めたようにそれが私の背中に回ると、私は隠しもせずにんまりと笑って、押し倒す勢いで力を込めた。すると、 「ニャッ…、 !?」 「あ、コムイさんの言った通り!」 「はあ!? 最ッ悪だ…放せてめっ」 「うふふ、神田、もし本当に猫になっちゃっても私が一生面倒みてあげるからね」 「誰がだバカヤロ―――ッ!」 叫んだ神田はその直後突如爆発した真っ白な煙に巻かれ、その場に残っていたのは一匹のすらりとした黒猫だったという、この奇妙な事件の全貌を見届けたのはリサただ一人であった。 翌朝、すっかり元の姿に戻った神田が血眼になって室長室の扉を蹴破ったことは、もはや言うまでもないだろう。 //20081024 にゃんだになっても蕎麦が好き |