Two hands | ナノ


体育館の半分は、もう二酸化炭素で充満しているのではないかと、そんなことを熱くなった脳みそでどこか冷静に考える。荒い息遣いは歓声に飲み込まれているが、確かな熱気を纏ってコートを包んでいた。

点差は1点に縮まっていたが、20対19で未だ3年生が優位。残り時間はあと2分。夏の暑さが選手の体を必要以上に疲労させ、迸る汗が互いの体力の消耗をありありと物語っていて、見ているこっちまで体がからからに乾いたように感じる。

「まだ2分ある!諦めない、でッ」

アレンくんは言いながら相手が零したボールを掠め取り、かなり無理のある位置からシュートを放った。しかしやはりそれはリングに弾かれ、ガンと鈍い音を残しボールはまた敵の手へ。

「焦ってん、な、モヤシ」
「はっ…アレンです、って」

上がった息で、ふらつく体で、尚も口論を続けるアレンくんと神田先輩。不戦敗を申し出た先輩ではあっても、試合続行となれば容赦はない。しかもバスケ部に負けず劣らない身体能力。頭はよくないと聞いたのだが。

応援しかできない私は、はらはらして気が気でなかった。さきほどのアレンくんもこんな思いをしていたのだろうか。残り時間は1分を切った。ボールを取った相手チームも同じく相当疲れているようで、しかし1点の余裕だろうか、さっきのアレンくんのような大きなシュートを放つ。やはりそれはぶれてこちらのクラスメイト、アレンくんと同じバスケ部の人がうまく取って、

「ウォーカー!」

彼が出した鋭いパスに、アレンくんは機敏に反応した。伸ばされた腕に真っ直ぐボールが飛び込んできて、しかしそれが指に触れた瞬間、聞き取り辛かったがアレンくんは確かに呻くような声を上げて、ボールを取り損ねた。
私は心臓が引き絞られるような痛みを覚え、気付いたときには審判に「タイム!」と叫んでいた。

「アレンくん、こっちきて!」

半ば怒鳴るようにそう叫んで、しかし彼が動く前に私はコートに駆け入って彼の腕を引っ張りベンチへと連れて行った。僅かに眉をしかめているアレンくん、不安そうに顔を歪めた男子チームも集まってくる。

「どうかしたのか?」
「ウォーカーの様子がおかしくてよ…」
「アレンくん、左手だよね。見せて」
「…は…ほんと、敵いませんね、桜には」

いいから黙ってとアレンくんの左手の中指をくいと動かしてみると、「いっ」とまた上がる声。

「…突き指。かもしれない」
「…すみません、汗が目に入っちゃって…」

3年ベンチでは勝利を確信した人々の歓声が響いている。途端にざわつくクラスメイト。

「突き指?おいアレン、」
「リーダーがいねぇんじゃ勝てる確率相当低くなるぜ…」

落胆の声を漏らす皆と、私も同じ気持ちだった。これでは仕方ない。アレンくんにこれ以上頑張って欲しくないのも確かだ。
しかしアレンくんは「何言ってるんですか」と立ち上がると、負傷した指に自分で湿布を巻きながらタイマーを見た。

「僕は両利きです。左手が不自由になったってプレイ出来なくなる訳じゃありません」
「…でも、あと45秒しか…」
「あと45秒もあるんですよ。考えてもみて下さい、一本シュート決めれば僕らの勝ちです。ここで逆転勝利を勝ち取れれば」

ごくり、と選手たちの喉が鳴る。みるみる復活するのは、瞳に宿る闘志の炎。

「…ね。ぞくぞくするでしょう」

バスケってそういうスポーツです。乾いた唇をぺろりと舐めながら、アレンくんは自信に満ちた笑顔を浮かべた。なんでそんな顔が出来るのだろうと、私は何故か早くなる鼓動を聞きながらそう心の中で呟く。

「僕は皆を信じてます。それほどの力が君たちにはある」
「…ウォーカー…」
「言うじゃねえか。そこまで言うならやってやろうぜ」

タイム終了の合図が主審から出され、男子たちは女子チームの声援に背を押されながらコートへと繰り出していった。アレンくんは指の具合を確かめてから、十分だと呟いて、同じくコートへと戻っていく。

「アレンくん!」

はたと足を止め振り向くアレンくんの背に、私は一度深く息を吐いてから。

「…む、無理はしないで」
「…勝ちますよ。必ず」

ぴっと親指を立てて微笑むアレンくんに、私はぶわっと顔が赤くなったのを感じた。なんてかっこいいんだろう。なんて頼もしいのだろう。こんな男の子を、私は他に見たことがありません。



ピッ、ピッと音を立てながら、タイマーは非情に時を刻んでいく。残り何秒、とか確認する余裕が私にはなくて、ただ、まだ終わるなと祈りながら試合を見つめ続ける。驚くほどのパスワークを、2年選手は発揮していた。そしてそのボールはとうとうアレンの元へ渡り、右手で器用にそれを受けたアレンくんは走り出した。同時にギャラリーから10秒前のカウントダウンが始まる。おそらくこれが最後の攻め。

ゴールまでまだコート半分ほどもあるのに、耳に入るカウントに間に合わないと判断したのだろうか、アレンくんは再びかなりのロングシュートを打った。私の周りだけか、それとも本当に体育館中もだったのか、水を打ったような静寂に包まれる。まるでスロー再生のように、空を滑るように動くボール。

「入れっ…!」

その場にいた全員が、アレンくんに、そのボールの行方に目を奪われた。大きな放物線を描きながら、それは長く飛んで、飛んで、飛んで…

―――ガンッ

ボールはバックボードに弾き返され、放たれた勢いを殺さぬまま戻ってくる。歓喜と、落胆と、カウント1。負け、るのか。汗ばんだ手で自らのシャツの胸元を掴み、ぎりっと奥歯を噛み締め…

しかしそのとき、勝利を確信した先輩プレイヤーの間をすり抜け、ゴール下へと一気に距離を詰めた影があった。だんっと地響きがするほど強く踏み切り、小さな(と言ったらいつも怒られるけれど、)体が驚くほど高く飛ぶ。コートの中心にいたはずのアレンくんであった。

ぱしッ

先ほど自分が投げ、リバウンドしたボールをそのまま掠め取る、その流れの鮮やかなこと。頭上で再度ボールを構え空中でアレンくんはさっとゴールに視線を流すと、一度ぐっと胸を反らし、そして、そのまま。

「…っりゃあ!」

バシュッ

ピ――――――…ッ

その場にいた生徒の大半が、何が起こったのかを理解していなかった。音のなくなった体育館にやかましく響くアラーム音の中で、ゴールネットから滑り落ちたボールがバウンド。めくられる得点。20、対、…21。

途端会場には爆発的な大歓声が溢れ返った。ぽかんと、まだ状況把握が出来ていない私に、隣にいた女子生徒がきゃあきゃあと涙ぐみ何か叫びながら抱きつく。信じられないというような顔をする先輩チームの中で、神田先輩だけが小さく笑っていた。整列するのも忘れて雄叫ぶ選手たち。はあ、と額の汗を拭いながら、私を振り返るアレンくん。勝った。勝ったんだ。マグマみたいに胸の奥底からふつふつ湧き上がる激情。

「ア、レンくん…っ!」
「言ったでしょう、勝つって!」

こんな嬉しそうなアレンくん、久々に見たなあ。思い出したようにこみ上げてきた涙で潤む視界に駆け寄ってくる彼を捉えて、じんと熱くなった胸にそれが心地よくて。

「ナイスファイト!」

ぱん、と乾いた音、重なる手のしっとりとした熱。この日、互いに必死になって勝ち取る、心からの喜びの快感を知った。


#08 ハイタッチ


20080720
やっと試合が終わりました