滴る深紅に愛など添えて | ナノ


―――――…

「神父様!」

名前が言うと、男はふっと気だるげな顔を上げた。神父だと? あの男が? もっと年配で、背が低く、見えているのかと突っ込みたくなるくらいに細い目をしたような奴をそう言うのではないのか? まあこれはただの僕の偏見だけど。あんなぴりぴりとしたオーラを背負って、猟奇的な瞳をして、そしていかにもそこらの女が好きそうな容姿である。まさか名前と彼の間には、神父と修道女という関係以外に何かあるのではないか。名前だって僕が行かなくて良いと言ったのに、こうして教会に進んでやってきているではないか。眉をしかめ(コウモリには眉なんて無いだろうか)じっとりと男を見詰めていたら、ふっと男の視線がコチラに向いて、僕はぎくりと目を閉じた。

「…神父様?」

すぐに神父は名前を向くが、僕はまだ視線を逸らしたまま冷や汗をかいていた。なんなんだ、今のは。柱に隠れた僕の姿は見えていないはずだけれど…気付かれてしまうほど、僕は殺気を放っていたのか? それとも彼の神経が人間離れして鋭いのか? もしくは、偶、然?そう、そうだといいのだが。カツンッ、とまた踵が床を弾く音がして、僕は慌てて視線を戻す。

「あ、? あの、神父様…」

ずかずかと近付いてきた神父に、名前は笑顔を強張らせてじりっと後ずさった。銜えていた煙草をすっと指で挟んで男はさらに歩み寄ると、もう片方の手で名前の頬に触れた。名前は困惑しきった顔で男を見つめ返す。何なんだあれは、と僕はやきもきしながらその様子を目を細め傍観していた。

「…何か言いたいことがあるんだろ」
「え、あ、あ…はい。その前にこの手を退けていただきたいのですけれど」
「構わん」
「………」

名前の方が構うだろ、と僕は奥歯を噛み締め突っ込んだ。男女の触れ合いは宗教的にもあまり芳しくない行為のはずだ。名前は気まずそうに辺りをそっと見回すと、心持ち声を潜め、俯いた。

「ええと、長く…なるのですが…」
「ほお、ならば立ち話もなんだな。聖堂へ行くか」
「せ、聖堂? ですがまだ閉まっているのでは」
「鍵なら持っている。それにお前、昨日のミサをすっぽかしただろう、ついでに神に詫びでも入れていけ」
「あ…それについては申し訳なく…」

聖堂、という言葉に心臓が萎む感覚がする。さすがに聖堂なんて、神聖な力に満ちた場所には入れない。盗聴もここまでということか、いや、しかし…

―――キンッ

尋常でない殺気を感じて、僕は思わず背筋を凍らせた。何故だ、体が動かない。遥か下で赤い髪が翻る。彼の鋭い眼光がこちらを射抜いていた。確かに、こちらを。気付かれているのか、やはり。ならばことを起こさねばと思うのに、全身の神経がまったく反応しない。冷汗が噴き出すのを感じた頃、彼は名前の呼び声に視線を戻し、不思議そうな顔をする彼女とともに、何事もなかったかのようにその場を後にし、呆気なく見えなくなった。

ひゅう、と口から息が漏れだす。まだ人はたくさんいるのに、自分の聞く世界は驚くほど静かだ。やはり彼は知っていたのか、自分の、存在を…?

このまま尾行して彼女が密告することを阻止しようなど、考えている場合ではないようだった。あんな危険人物と、しかも聖堂なんて自分にとっての禁域に。

「…勘弁」

してくれ。ふらりと僕は教会を抜け出し、少し軽くなった体で旋回し、教会の大きな鐘を眺めた。

さて、どうしたものだろうか。彼女は戻ってくるだろうか。…否、そんな訳ない、吸血鬼からせっかく逃れられたのに、帰ってくるはずがない。僕のところになんか誰も、戻ってくるはずが、ないんだ―――

遠くの方で、12時を告げる鐘が鳴った。青い空に散り散りに飛びたつ鳩。太陽がまぶしい。ここは僕の世界ではない。僕のような存在が、許される世界では、ない。

音もなく姿を人へと戻すと、ストン、と地に降り立った。暗い裏路地で数回呼吸すると、彼女に押しつけられた馬鹿みたいな量の荷物を見下ろして、何故か冷たくなる胸を殴りたい衝動に駆られた。

冷えたのは心臓ではなくて。では一体、何処だというのだろう。


吸血鬼の困苦


20100911