滴る深紅に愛など添えて | ナノ


―――――…


くらくらくら。うじゃうじゃと人が群れを成す市場に満ちた血の匂いに頭の中が掻き回される。こんなに人が多いところに来るのは久しぶりだ。いけない、抑えろ、こんな陽の高いうちから人間を襲えば目立つ。それにドロシーとの約束もある。吸血鬼だって仁義くらいはないこともない。日中出歩けるデイウォーカーであることに、これほどまでしんどいと思ったことが未だかつてあっただろうか。

ここまでの僕の心境からも察しがつくように、僕は今、朝の市場に立っていた。ちゃきちゃきと歩き回って食材やら器具やら買出しを進める少女に手をひかれ、僕はずるずるとそれについて回っている。何だこれ、言葉にするとますます情けないな。彼女はただの僕の「食糧」だというのに。土砂降り直前の空模様のような表情の僕とは対照的に、ドロシーはつやつやとした笑顔で言った。

「ああ、こんなときの為に貯金をしておいてよかったわ。必要なもの全部揃えられるだけのお金がある」
「…こんなとき、ね」

恐らく数年前の貴女は、吸血鬼の捕虜になるなんて夢にも思っていなかったでしょうよ。呟いても彼女には届かないようで、あっ、と何かを思いついたように彼女が声を高めた反動で繋がった手にもぎゅっと力が入って、僕は堪らずどきりと肩を竦めた。ああもう、心臓に悪いなこの女!大体なんでまだ手を繋いでるんですか!文句のひとつでも言おうと思ったら、覗いたドロシーの顔は今までのテンションからは想像も出来ないくらいに沈んだように見えて、僕は思わず口を噤んだ。

「神父様にごあいさつをしなくちゃ。教会はもう通えないものね…」
「…律儀ですね。そんなのどうでもいいでしょう」
「あら駄目よ…ご迷惑でしょう。それに、みんなに心配されて私を探されて、都合が悪いのは貴方なんじゃないの?」
「………」

一筋縄ではいかないらしい。己が口下手ではないことは自負していたが、ここまで僕と口でやり合える者もなかなかいないんじゃないだろうか。しかし、他人と会いまみえることを目的とした場に僕もついていく訳にはいかないし、かといって彼女をひとりにしては逃げられる危険性がある。じっと僕が考えていると、彼女は僕の心中を知ってか知らずか、ずっと握っていた手をあっさりと離し、さっきまでの暗い表情はどこえやら、にこやかに荷物をこちらに押し付けてきた。この変わりようには溜息を吐かざるを得ない。ころころと表情を変えて、乙女心と何とやらとはよく言ったものだ。僕はこれでもかと怪訝に顔をしかめた。

「何ですか?」
「吸血鬼の貴方が教会には来れないんじゃないかと思って。先に帰ってていいわ。私、話が終わったらそっちに帰りますから」
「―――ふうん。そう。ええ、そういうことなら」

…なんて、言うと思ったのだろうか。やはり彼女は僕の元から逃れ、教会に助けを乞うつもりなのだ。吸血鬼を馬鹿にしないでいただきたい。教会に近付けもしないほど、少なくとも僕は柔ではない。教会に向かうドロシーの背中をこれでもかと清々しく見届けて、僕はそっと彼女の後をつけた。一応気付かれぬよう注意はしていたが、彼女はのんきなまでに背後を気にしていなかった。
ものの数分歩いたところで小さな教会が見えてきて、彼女は正面から中へと入って行った。人は疎らだ。僕は細い路地に荷物を下ろし、ちらりと人目を気にしながらさっとコウモリに姿を変える。こういうとき、吸血鬼の能力は本当に便利だ。天窓からあっさりと教会に入ると、すぐに巨大な十字架が目の前に現れて心底不快であった。フイと顔を逸らして旋回、容易く発見したドロシーを追いつつ高い天井を浮遊していると、ドロシーははたと足を止めた。正面からは赤い髪の、一見教会とは不釣り合いなナリの男が、カツンカツンと靴を鳴らして歩いてくる。ドロシーの視線は確実に彼に向いていた。なんだかおかしな気分になった。


吸血鬼の胸騒


//20081124
振り回されまくりのアレン様