滴る深紅に愛など添えて | ナノ


―――――…


「その手は、どうされたの?」

午前、6時。テーブルについてぼんやりと自分の手のひらを調べていると、いつの間に起きてきたのか、少女が寝室から出てきて僕にそう言った。

「ドロシー」

昨日知ったばかりの名前を口にすると、ドロシー、は、寝惚けた顔にうっすらと笑みさえ浮かべた。おかしな人だ。つい昨日、この僕にここでの永久軟禁を強いられたばかりなのに、まだそんな顔をする。それとも、僕を油断させてその隙に逃げようとしている?そうはいきませんよ。例えそんな素振りを見せようもんなら、貴重な食料元でも容赦はしない。
彼女はゆっくりと近付いてきて、僕の真っ赤な、傷だらけの手を顔をしかめて見下ろした。

「どうされたのですか?」

ドロシーは再度問う。僕は自らの醜い左手を擦りながら、至極穏やかな声で答えた。

「バスターにやられましてね」
「…バスターに…?」
「もう何年も…前のことです」

この傷を負ったのはロシアの辺りであったか。吸血鬼を恐れる民の為、退治屋を職とする者などこと時代にはざらだ。相手に攻撃してくる隙を作るなんて一生の不覚だった。普通に生活するのに支障はきたさないが、この痛々しく醜い傷は永遠に消えないだろう。自らの左手をぼんやりと見詰めて、僕はいつも通りそこに白の手袋を嵌めた。

「…痛みは、ないのですか?」
「何年も前の古傷だと言ったでしょう」

憐れむような目で、今はもう手袋に隠された僕の左手を、ドロシーはじっと見詰めていた。まるで心配されているようなそれに僕はどういうわけか無性に腹が立って、突き放すように刺々しく言い捨てる。

「幸運にも僕はお年頃の女の子ではありませんからね。腕の一本や二本、どれだけ醜く変形したところで痛くも痒くもありませんが」
「……そう」

ドロシーは小さく呟くとそれきり口を閉ざして、ふらりと少し離れたソファに腰掛けた。沈黙。静かなのは慣れていたけれど、同じ空間に他人がいるのを否が応にも意識してしまい居心地が良いとはとても言えなかった。さしてすることもなく、ただ置いてあるだけの埃を被ったブラウン管のテレビや、シャワー室に繋がる通路に視線を移す。ドロシーはそれに気付いたようで、思い出したかのように言った。

「電気が通っているのですか?」
「…ええ」
「ガスも?水も?こんな森の中なのに」
「ソーラーなんですよ。屋根にパネルが設置されてます。この小屋の主が昔取り付けたんでしょう…水は近くの泉から引いています」
「へえ…意外と便利ですね」
「でも持ち腐れですよ。僕はテレビは見ませんし料理もあまり食べないし。体を清めるなら泉に直接行って…夜はランプで十分です」
「でも人間の私が住む以上、こういう設備はあるに越したことはないもの」

さらりと言う彼女に僕は顔を僅かにしかめた。僕と同居することに何の抵抗もなく、むしろ肯定するかのような物言いだ。吸血鬼と暮らすのが嬉しい? いいや、そんな訳がない。ならばもう開き直っているのか? 生け贄ならば本望だと? 解らない、解らない。彼女が解らない。いっそのこと怯え震え上がって、僕から出来うる限り離れていようと、最後の抵抗を示してくれればどんなにも気が楽か。

「そうだ!」

弾かれたように突然立ち上がったドロシーに密かにぎくりとした。しかしそれを表には出さず、何事かとゆっくり振り向くと、ドロシーはキョロキョロと部屋を見回して、僕に「バスケットはないかしら?」と聞いてきた。…バスケット?

「…どうして?」
「買い物に行きたいの」
「は?」

目を見張る僕に構わず、ドロシーは一度寝室へと向かうとストールを取ってきて、僕が昨日裂き破いた修道着の首もとに巻き付けた。彼女自身は森にいたときに引っ掛けたとでも思っているようだ。そしてまた僕に問う、バスケットはどこかと。僕はこれ見よがしに溜め息をつく。

「バスケットなんてありませんし、貴女を買い物に行かせる訳にもいきませんよ」
「え?」
「村には帰さないって言いませんでしたか? 買い物なんて、解りやすい僕からの逃亡の口実ですね」
「そんな、私そんなこと思ってもみませんでした。それに、だったら、私はこれから何を食べて生きていけばいいんですか?」

もっともな意見に僕は閉口するが、こちらとて引くわけにはいかない。貴重な食料源をみすみす逃すような僕じゃない。せっかく捕まえた兎を、いちご摘みに外に出す狼などどこにもいないのだ。返す言葉を探していると、ドロシーは良いこと思い付いたとばかりに顔を輝かせた。

「なら、あなたも一緒に行きましょう?」
「え、」
「吸血鬼だからといって、たまにはお日様の光に当たらないと体に悪いですよ」
「健康的な吸血鬼がどこにいますか」
「あなたが例外になればいいわ」

ね、と左手を自然に取られて、僕は驚き顔を上げた。つられたように彼女はびくりとして手を離す。笑顔を曇らせて小さく言った。

「…あ。ごめんなさ…痛みはもうないと仰ったから…」

痛かった訳では毛頭ないのだ。世にも醜いこの左手を、例え手袋越しとはいえ、少しも恐れず自ら触れてきた彼女に驚愕しただけで。僕は軽く首を横に振って、一人言のように呟いた。

「…怖く、ないんですか」
「…怖い? あなたが?」
「それもあるけど…この左手が。気持ち悪くないんですか」

ドロシーの瞳が迷うように揺れる。しかしそれもほんの一瞬で、「痛くはないのですね」と再び僕の左手を、その繊細な指先で握った。

「…手を、繋いでいなければ、私が逃げてしまいますよ?」

穏やかな微笑を向けられて、僕は心臓をぐらぐらと揺すられた気分だった。解らない、解らない。彼女が解らない。ドロシーの柔らかに揺れる髪を見詰めながら、僕は気付かれないよう静かに唇を噛んだ。


吸血鬼の動揺


//20081102
珍しく余裕のない吸血鬼アレン様