滴る深紅に愛など添えて | ナノ


―――――…


衝撃に表情が硬直し、呼吸さえ止まっているようだ。それが堪らなく愉快で、僕はくすくすと押し殺したように笑った。…しかし。

「…それならどうして、私はここにいるのですか?」

すぐさま冷静さを取り戻して問うてくる女に、僕は笑うのを止めて目をぱちくりとさせた。さきほどの僕と同じく強い眼差しで、ベッドに貼り付けられ圧し掛かられているというのに、彼女は臆することなくまっすぐにこちらを見上げている。僕の正体を知っていながら、泣き叫びも発狂もしないで、こうして睨みつけてくる女性なんて初めてだ。僕は再びせせら笑いを浮かべた。

(…へぇ…)

僕が答えないでいると、ついさっきの笑顔はどこへやら、彼女は不機嫌にむっつりとした顔をした。女性は表情が豊かで面白いな。僕はそれでも冷たくそれを見下ろすばかり。業を煮やした女の唇が開く。

「貴方はあの有名な吸血鬼なんでしょう? 森で倒れているうちに、私を殺せばよかったじゃないですか」
「…君から、匂いがしたんです」
「匂い…?」
「そう。今まで嗅いだ事のない、甘くて…美味しそうな血の香り…」

それは現に、先ほどからもずっと辺りに漂っていた。もちろん匂いを感じられるのは僕だけであるが。混乱したように眉根を寄せる彼女の肩に顔を近付け、味わうようにその香りで肺を満たす。

「あの時、貴女は弱っていたから。一口飲んだだけで君が死んでしまったら、それはあまりに残念だなあって、思ったんです」
「…つまり、私の血をたくさん、飲みたいって…こと…?」

微かに震えを帯びた彼女の声に、ええ、とにっこり答えたら、その白い喉がごくりと鳴るのが解った。やせ我慢もそろそろ限界かな? そう思った矢先にしかし、彼女は僕の期待をことごとく裏切る。

「いいわ」
「え?」

それにはさすがの僕も、声が洩れるのを抑えられなかった。今の言葉は、僕の知る限り許可の意味だ。僕には決して与えられないはずのもの。しかし彼女は「いい」と言った。驚きを隠さない僕を、彼女は少し清々したような顔で見ている。

「私の血を飲み続けたいってことなら、私を殺す気は、ないんでしょう?私にはよく解りませんけど、私のその血の匂いっていうのが、貴方には魅力的なようですし」
「………」
「血ならあげます。その変わり、もう村や街の人には手を出さないで下さい」

…ああ。そういうことですか。交換条件を持ち出してきた彼女に、僕はハッと嘲るように言う。

「駆け引きが出来る御身分ですか?」
「私が死んで困るのは貴方でしょうに」
「君の血が実際に美味しいかなんて解りませんよ」
「じゃあ味見でもされてみたら?」

ほら。と頭を傾けて、その首筋をさあ吸えとばかりに差し出してくる少女に、僕は再び驚愕する。まったく意味が解らない。そんな挑発的で、殺されるかもしれないとは思わないのか?それとも死が怖くはないのか?強気の態度を崩さない彼女に複雑な気持ちになりながらも、じゃあ遠慮なく、とその曝け出された肌に顔を埋めると、あ!と耳元で大きな声を出され、僕は突然のそれにキインと揺れる脳髄に瞼をきつく閉じた。

「な…〜〜ッんなんですか、君は、ほんとに」
「い…や、あの、確かリナリーが、吸血鬼に噛まれたら吸血鬼になるって…」

不安そうな声にちらりと顔を上げたら、その声色にぴったりの表情で彼女は慌てふためいていた。リナリーとは彼女の友人か?『殺されるのでは』でなく、『吸血鬼になるのでは』…僕は「味見」しかしないと信じ切っている彼女に、僕の胸には疑問が渦巻いた。理解不能な感情は僕をますます苛立たせる。

「さあ、知りませんよ、今まで僕が襲ってきた人は皆死んじゃいましたし。でも別にいいんじゃないですか? もし君が吸血鬼になったら、お互いの血を啜り合って暮らせば問題ないでしょう」
「そんな人生悲惨だわ」
「僕はなかなかいいと思うけどなあ」

いい加減僕は誘惑に耐え切れなかった。こんなに近くに、僕を魅了して止まない甘美な香りの源があるのだ。何か言い返そうとする素振りをした彼女に構わず、首と肩の間あたりの、柔らかい場所にそっと牙を埋めた。唐突なそれに女は息を呑む。やはり怖いか。そりゃそうだろう、肌に噛みつかれたら少なからず苦痛もある。白肌に出来た噛み痕から、じわりと深紅の血が滲む。僕はそこに、幾人もの血液の味を占めてきた舌を押し当てた。

「…ぅ…あ」

くすぐったいのか痛みが勝るのか、理由は定かではないが、血を舐め取った僕は上がった声に一度舌を引いた。深くなっていく彼女の呼吸。ほんのりと桃色の頬を隠すように、少女は自分から顔を背けた。唇を親指で拭い、そこに付着した血をまた舌で舐め取る。甘い。こんな血液は飲んだことがない。少し舐めただけで体がふわりとして、まるで強いアルコールのようなそれに、僕はすっかり気を良くした。見たところ異常はないようだ。吸血鬼云々の心配は杞憂に終わったらしい。ぜえ、と息を吐いて、女は切れ切れに言葉を発す。

「…どう…だったのですか」
「ん…予想以上でしたよ」

まだ出血の止まっていないそこに再度猫のように(とは僕には大層可愛らしすぎる比喩であるが)舌を這わせると、う、とまた小さな呻き声が上がった。

「そ、れは、お気に召したって…ことかしら」
「ええ、それはもう。何を食べればこんな甘い血になるんでしょうね…?」
「別に…特別なものは…」

くつりと僕は笑って、心なしか潤んだその瞳に言い聞かせるように囁いた。

「貴女の条件、乗ってあげます。ただし、僕からも条件を」

血を捧げさせておいてその物言いに、恨みがましい目をされるが、もはやそれすら気にならない。文句を言いたそうなその唇に人差し指を当ててそれを封じる。

「貴女を村へは帰さない」
「、え?」
「逃げられては困ります。貴女はこれから、僕と一緒にここに住んでもらいます。別に難しいことはさせませんよ、お腹が空いたら血をくれればいいんです」
「……それは」

声のトーンを下げる彼女に、僕は口を三日月のようにして笑った。さすが賢いシスター、神に仕える修道女様。そうです、貴女は村の、街の、人々の生贄になるんですよ。残酷すぎる未来にすら少女は動じないように振舞っているが、その心の奥では悲痛に泣きじゃくっているのが目に浮かぶようだ。しかし貴女は断れない。選択肢はひとつしか残されていないことを彼女は悟っていた。女は唇を噛んで暫く黙してからきゅっと瞼を瞑って、震えた、それでもきっぱりとした口調で言った。

「…わか、りました」
「ふふ…契約成立ですね」

摘み取った蜜花の手の甲に、僕は恭しく口付けた。

「ではとりあえず、名前を教えて?」


吸血鬼の誓言


//20081023
ようやく始まる同居生活