ある日の夜、時刻は二十三時を丁度過ぎた頃。愛しい愛しい彼女のヒロインから電話がかかってきたのは、淡い眠気に思わず欠伸を洩らしたそのときだった。ちか、と携帯のライトが光ったかと思えば、液晶画面に点滅したのは彼女の名。電話がかかってくること自体が珍しいことなのにこんな遅い時間にだなんて。微かな動揺を覚えながらも俺は迷わず通話ボタンを押す。
「もしもし、ヒロイン?」
「ふぇ、ディーノさぁん…っ」
出るなりヒロインは縋り付くような声で俺の名前を呼んだ。今にも泣きそうな様子のヒロインに、思わず目の前にしていた厄介な仕事の書類を放り出す。
「なっ、ヒロイン、どうかしたのか?」
「とも、友達が映画で、わたしひと、りで、怖くて、…っ」
「(…?)ちょ 落ち着けって、な?今家か?…ん、じゃあそこで待ってろな。ああ、心配すんなって、すぐ行くから」
完全にパニックになっているヒロインをなんとかなだめて電話を切る。俺は仕事で並盛町の近くにあるホテルに丁度滞在中だった。急遽車を用意させて、ロマーリオを運転手にヒロインの家へ全速力で向かう。助手席で腕を組みながら先ほどの会話を思い出す。ひとり、と言っていた。親がいないということだろうか…
到着したのは約20分後。俺はロマーリオを残して車を降り、表札の下に取り付けられたインターホンを鳴らす。
―――ピンポーン
「………、あれ、」
反応がない、しかし不在なわけがないのだ。あれほど何かに怯えたヒロインが、俺の言い付けを無視して家を出るとは考えにくい。第一、ヒロインの家には眩しい程に、どの部屋にも明かりがついている。試しにピンポン、もう一度押してはみたが結果は同じ。俺は少し躊躇いながらも、門を抜けてドアへ向かった。
「…あ、開いちまった」
ガチャリと音を立てて、ドアは呆気なく開いた。軽い驚きにぱちくりと目を見開いて、余すことなく照明がついた玄関とその先の廊下を見据える。
「おいおい、いくらなんでも無用心だろ」
女の子ひとりで、と言いつつも俺は無遠慮に玄関に足を踏み入れ、戸締まりとばかりに鍵をかけた。
お気に入りだと言っていたヒロインの靴が綺麗に揃えて置かれている。
「邪魔するぜー!」
口の横に片手をそえて、取り敢えず大声で呼び掛けてみる。返事はない、気付かれた様子もない。この家には、何度か来たことがあった。ヒロインの試験が近付くと家庭教師だと託つけて上がらせてもらったり、勉強なんてそっちのけでじゃれあったり。記憶を辿って階段を見付け、踏み外しそうになりながらも慎重に上っていく。突き当たり左、そこが彼女の部屋。
辿り着いた部屋の扉をノックするが、やはりまたもや反応は皆無だった。仕方なくノブに手を掛けそっと開く。それもまたもやあっさりと開いて俺を中へと招き入れた。中に、ヒロインは居た。小さなソファに深く腰掛け腕に抱えられるほどの大きさのクッションを抱き締め、そこに顔を埋めて震えていた。耳にはイヤホン。返事が無かったのはそのせいか。
「…ヒロイン」
「ひッ…いやあぁああ!」
ゆっくりと近付いて両肩を抱いた瞬間、けたたましい悲鳴をヒロインは上げた。びっくりと思わず手を離してしまった俺に対して、彼女は黒髪を振り乱しながら震える声で言った、嫌だ、と。
「ヒロイン…ヒロイン!俺だって、」
イヤホンをぐいっと取り上げて、力強くぎゅうと抱き締める。ヒロインは小さくひくっとしゃくりあげて、ようやく我に返ったようだった。
「…ディー…っ」
「っ、おわ」
がば、と突然勢いよく抱き着いて来たヒロインを、俺はぐらつきながらも受け止める。
「ヒロイン?」
「怖かったディーノさん、こわか…ったよぉ、」
小さく震えるヒロインの背中を、肩を優しく撫でて、状況はよく解らないが今は彼女を落ち着かせることに努める。肩口に顔を埋めて泣き声を押し殺すヒロイン。背中に回された腕の力は弱々しくもぴったりと密着されて、無意識に頬がじわじわと火照っていく(可愛いこいつ可愛い)漸く落ち着いたらしいヒロインの頭を俺はただ黙って撫でていた。
「何があったか、話せるか?」
「え…っと、あの」
どうやら今日の昼間、ヒロインは友人の家で半ば強引にホラー映画を見せられたらしい。運悪く親はどちらも出張、怖がりなヒロインがそんな状況で一人眠れるはずもなく、堪らず俺に電話をしてしまったのだという。
「ごめ、なさ…こんな時間に迷惑、でしたよ、ね」
ひっくとまたしゃくりあげて泣き出してしまったヒロインを俺は慌てて抱き締めて、優しく頭を抱いて宥める。
「お、おい泣くなよ、迷惑とか俺思ってねぇから!これぐらい当たり前だって」
というか寧ろ頼ってくれてめちゃくちゃ嬉しいのが現状。
「な、今夜はずっと一緒にいてやっから」
「っ、ほ んとに…?」
「ほんと、だからほら、もう泣くなって」
頬に伝った涙を服の袖でぐいと拭ってやると、ヒロインは子供みたいにぎゅっと目を閉じてから俺に再びしがみついてきた。
「ありがとうディーノさん、だいすきです」
「……っ」
そんな可愛い言葉を聞いて、不意打ちなそれに俺は思わず息を呑んだ。今夜はずっと一緒にだなんて、俺の理性はもつのだろうか…
「ディ、ディーノさん、そこにいます?」
「へーきだって、ちゃんと居るから」
それから数分後(ロマーリオには帰るように連絡しておいた)早速俺は、理性の限界を試すゲームに興じることとなった。ここは洗面所、一枚のスモークがかったガラスのドア越しにはヒロインがいる、裸で。ヒロインと肌を重ねたことがないわけじゃない。しかしその回数は片手で数えられる程度。何日も仕事漬けでヒロインを目にしたのも久々だというのに、これは酷だと思う。ぱしゃりと水が跳ねる音やシャワーが降る音にさえ俺は敏感に反応した。だめだ、と解っていてもこのドア越しの様子を想像してしまう(ああ俺の正直者!何のためにここに来たんだよっ)ていうかヒロイン風呂長い。女の子は長風呂が好きだとか聞いたことあるけど、待たされるほうはなかなか辛いもんだ。
「ディー、ノさん、いますか…?」
「ん…、いる(から早く上がってくれ!)」
やがてドアががしゃりと開いて、腕を組み悶々と壁に寄り掛かりながら立っていた俺は無意識に視線を向ける。中からはヒロインの上気してほんのり赤い顔が覗いて、俺を見付けたとたんにふにゃりと綻んだ。しかし途端にはっと目を見開いて、気まずそうに軽く俯く。
「あ…あの、ディーノさん」
「ん?」
「そこのタオル…取ってもらえますか、」
バスケットの中には真っ白なバスタオルが入っていた。ヒロインとは反対側にあったそれを取り上げて、ドアの隙間から伸びたヒロインの手に握らせてやる。
「ほい」
「ありがとうございます…」
すっと引っ込んだ手。しかしヒロインは困ったような赤い顔で俺をちらりと見ては逸らし……、あ、
「あの…すみませんが、目を…」
「あ、あははそーだな」
出ていけと言わないということは余程映画が怖かったのか。大人しく目を伏せて数秒後、ヒロインがゆっくりと浴室から出てきた気配がした。ぺたっと足がマットに降りる微小の振動。視覚が使い物にならないことで一つ一つの音が直接脳になだれ込んでくる。決して広くはない脱衣場で、ヒロインが纏ったバスタオルが翻る度に俺に風を送る。
「…もう大丈夫です、ディーノさん」
ぱちと瞼を上げれば、真っ白なバスタオルを体に巻き付け髪を高く纏めて、照れくさそうに笑うヒロインがいた(わ、こいつエッロい…俺が全然大丈夫じゃねーよっ)
「あ、あの、良かったらディーノさんもお風呂どうぞ」
「俺?いいのか?」
もちろんと微笑むヒロインを勢いで抱きすくめそうになり、すんでのところで思いとどまる(そんなことしたら確実に理性飛んじまう)
「俺が風呂入ってる間、一人で待ってられるか…?」
「う…が、頑張ります…」
唇を引き結んで頼りない顔をするヒロインの濡れた髪を撫でる。なるべく早く上がるからなと言えば少し彼女の表情が晴れた。
シャワーだけ浴びて浴室を出て、がしがしと乱雑に髪をタオルで拭きながらヒロインの部屋に向かう。ドアを開ければヒロインは小さな体に布団を羽織ってうずくまっていた。俺は内心苦笑しつつ、そっと近付いて布団をぽんと軽く叩く。
「ひっ、」
「ヒロイン、ただいま」
一度体を縮めた後、ゆっくりと布団から顔をだしたヒロインににこりとそう言って額に軽い口付けを落とす。ぱっと頬を赤くするヒロインもふにゃりと微笑んで、良かったと呟いた。
「ディーノさんが居てくれると嬉しいですね」
「そーか?映画そんなに怖かったのか」
「ん…それもあるけど、やっぱり私、ディーノさんが好きです」
いきなりの告白にぼっと顔が赤くなったのを確信した。それを隠すように俯いて「ああ」と呟くと、俺はヒロインをそのままベッドに寝かせた。
「あ…」
「そろそろ寝た方がいいぜ、時間ももう遅い」
「は、い…でも」
「ん?」
頬を枕に押し付けて困った顔をするヒロイン。耳を近付ければ小さく口を開いて、
「怖くて、眠れないです…」
我が儘言ってごめんなさい、とヒロインはしゅんとして続けた。俺が風呂にいる間も、なんとか寝てしまう努力はしたらしい。しかし目を閉じると映画の光景が蘇って、怖くて寝付けないのだそうだ。
「じゃあヒロイン、俺の事だけ考えて、目ぇ閉じて」
ヒロインはじっと俺を見詰めてから、戸惑いながらもゆっくりと瞼を下ろした。俺はそれを確認して、その小さな唇に触れるだけのキスをした。ぱっと目を見開いて頬を赤く染めるヒロインに、仕返しだと心の中では呟きながら、
「おやすみのキス」
これで頭ん中、俺のことだけになっただろ?にっこり微笑んでやれば、ヒロインも照れくさそうに、しかし酷く穏やかに笑った。
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ゆうへ相互お礼!