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空は深い深い闇に包まれている。草木も眠る丑三つ時。終わらない仕事に頭を痛めつつも、霞んでくる眼を強く擦りながら、俺は目の前の書類にひたすら名前を書き込んでいた。いくつも出てくる欠伸を噛み殺す気力ももう無くて、思う存分口を開けて大欠伸をしたそのときに、正面に構えたドアからこんこんとノックが聞こえた。

「ふぁ…はい、どうぞ…」

ガチャ、と大袈裟な音を立てながら、大袈裟な装飾が施されたドアが開かれる。そこに居辛そうに立っていたのは、淡い桃色のネグリジェ姿のヒロインだった。

「ボス…」
「あれ、ヒロインじゃない…どうしたの?」

入っておいでと手招きすると、ヒロインは小さく頭を下げて部屋に踏み入り、ドアを閉めた。恐縮したように俯いてそこから動かないヒロインを、俺は長らく手にしていたペンを置いて呼んだ。

「ヒロイン?何かあった?」
「あの…」

ギッと椅子から立ち上がって、いかにも高そうなカーペットの上を歩き彼女に歩み寄る。ヒロインの肩に手を置いてそっと屈み覗き込むと、今にも泣きそうな顔をしていたもんだからぎょっとした。

「ボスっ…ぎゅってして、くれませんか」
「え…」

お願い…と俺の腕を握り締めてくるヒロインの愛らしさに負け、俺はよく解らないままに細い体を胸に抱いた。あ、胸ポケットにペンを差しっぱなしだったかもしれない。痛くないかな…

「ふ…ボス…」

俺の背中に手を回してぎゅーっと抱き着いてくるヒロインのその力は、何かを訴えたがっているようにいつもより強い。彼女の後頭部にほんの少し残った寝癖を撫で付けながら、俺はヒロインにそっと囁きかける。

「何かあったの?」

このヨーロッパ、イタリアーナにはあるまじき、漆黒の髪がさらりと震える。胸元のシャツに埋もれた唇から、くぐもった声が聞こえてきたのはその二秒後。

「…夢を。見ました」
「夢?…ああ、怖い夢を見たんだ」
「いいえ」

ヒロインは小さな頭を左右に振ると、俺のスーツの背を握る手の力を怯えるように強めた。

「幸せな夢でした」

抗争を繰り返すこの世界から血生臭い争いが消え。銃声が絶えないこの世界から涙を流し嘆く者が消え。自分はというと、大切なファミリーの皆や俺と、いたく幸せそうに微笑んでいたのだという。

「怖いです、ボス。怖い夢を見るなんかよりずっと」

叶わぬ未来だから、せめて夢だけでもと。そう諦めている自分を知らしめられているようで。下手な悪夢よりもこんな過ぎる幸福を見せられる方が、かえって恐ろしいものなのだ。
腕の中で震えるヒロインの頭を数回撫でてから、俺は愛嬌毛を彼女の耳にかけて囁く。

「ボス…」
「違う、ヒロイン。昔みたいに呼んでよ、俺の名前」

困惑したように眉を下げ、ヒロインは俺の顔を見上げてきた。ほら、と促すように頬を撫でると、小さな唇が小さく開き。

「ツナ、…くん」
「ヒロインちゃん。思い出してみて」

お互い昔の呼び方で名前を言い合って、俺はヒロインの頭をまた自らの胸に引き込んだ。

「俺らさ、いつも笑ってたよな。山本の試合も観に行ったし」
「…夏休み、獄寺さんに勉強も教えてもらったね」
「赤点、いくつ取ったっけ?補習なんて何度受けたか解んないな」
「でも、馬鹿みたいに毎日楽しかった」

その何気ない日常が幸せなのだと、気付くのが遅すぎたのだ。ならば一刻も早くこの意味のない争いを鎮めて、またあの過去のような世界に変えれば良い。

「ヒロイン。幸福なんて、奇跡でもなんでもないんだ。昔の俺らなら当たり前だったことばかりだろ?」
「…でも、所詮昔のことです」
「昔出来たことが今出来ないわけないよ。違う?」
「…違わない、のですか…?」

ヒロインはまるで親とはぐれた迷子のように、俺の腕に弱々しく縋ってきた。今にも泣き出しそうな声にこちらの胸まで震えて、「俺はそう思う、」と呟く。

「ヒロインには獄寺くんも山本もいるだろ。何も心配なんてしなくていいんだ」
「…ボスもいます」
「…ヒロイン。もし俺が居なくなっても、ちゃんと幸せにならなきゃだめだよ」
「ボスがいない未来に幸せなんてありません…」
「……そうだね。俺もだ」

ヒロイン、ヒロインヒロインヒロイン。俺は明日ミルフィオーレのボスのところに対談に行くよ。ただ事じゃきっと済まないと思う。こうやって君を抱き締められるのも、もしかしたらこれが最後かもしれないんだ。

「…ヒロイン。ヒロイン、愛してる…」
「…いなくならないで、ボス。私を幸せに出来るのは、あなただけなんです」

このまま離さないとばかりに力が篭った彼女の腕。なんて愛しい君の熱。

ごめんね。一緒に逝けなくて。そんな悲しすぎる謝罪の言葉を、今のあまりに脆い彼女に告げることすら叶わずに。



ナイトメアは時に美しく微笑む/20080716