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※ 骸社長。



「………」
「…も…申し訳ありません…」

ズズ、と目を細めコーヒーを啜る男に、私は青ざめて頭を下げていた。こちらを見据える冷え冷えとした眼差しに、今度こそ首だろうかと、私はじわりと泣きそうになる。

「…ひとつも文字が読めませんねぇ…」
「うっ…す、すみませんっ、私のミスです」
「同じ失態を貴女は何回すれば気が済むんでしょうねぇ…」
「ッ…ご…ごもっともで…!」

お茶を被って滲みまくった書類の文章は解読不可能な状態に陥っており、これではどう頑張ってもシュレッダー行きだろうということは、誰にでも容易に想像出来た。しかしこれは会合に必要な重要資料なのであって、それを私がコピーを任されたものなのであって、ハイ処分、では済まされないのだ。…今更言っても遅いのだが。極端に涙目の私の顎を、社長の骨張って長い指が捉えた。

「泣いて済む問題じゃありませんよ」
「わ…私が責任を…」

上擦る声で言うと、ひたりと唇に人差し指を当てられた。驚いてそのまま黙ると、社長の表情は怒ったようなものからふわりとした微笑に変わった。呆気に取られて、その美しいと以外に形容しようのない容姿に見とれていたら、柔らかく弧を描いていた口元がゆっくりと動いた。

「キスしてくれたら、許してあげます」
「…へ?」

にーっこり。これ以上があるかというほどに輝かしい笑顔で、社長はこちらを見上げて来た。「な、」と喉を震わせた途端にぶわっと頬が熱を帯びて、私は唇を戦慄かせる。

「っ…かっ…会社ではそういうこと、しないって、約束…」
「別に良いですよ、嫌なら。さて他に、どうやって責任を取って貰いましょう」
「……!」

人の弱味につけこんでっ…と私は肩を震わせたが、会社の中では社長と秘書だ。罵詈雑言を並べる訳にはいかない。私たちが恋仲だということは誰も知らないし、バレてもいろいろと面倒だから(おおよそ女性社員からのいびりは免れないだろうし、彼も白い目で見られてしまう)、社内では目立った接触は避けている。それを彼も理解してくれていると思っていたから、このような要求をされるとは想定外だった。

「どうします?」

答など解っていると、彼の瞳が言っている。悔しいことこの上ないが、私は彼の思惑通りにする他ないのだ。選ばされているようで、私が選択出来る道はひとつしか無い。

「…それだけでいいんですか」
「おや。もっと良いことして下さるんですか?」

調子に乗るその発言は黙殺。私は一度ドアを振り返り誰も入ってくる気配がないことを確認すると、不敵な笑みの社長に向き直り、そっと腰を折った。

「……目、」

閉じてください、と言い切る前に落ちる瞼。今更だが彼は本気なのだ。私は意を決して彼の頬を手のひらで包むと、ゆっくりゆっくり、唇の距離を縮めた。ふたりの吐息がもうこんなに近―――


こん、こん。


びくっとして私は息を止めた。背後からノックの音がする。あまりに突然でその状態のまま固まっていたら、社長の瞳が目前でぱっちり開かれて、ありえないくらい至近距離で目が合うからまたどきまぎした。

「…社長?次の会合に必要な資料のコピーをお持ちしました」

柿本君の声だ。社長が最も信頼している社員のひとり。私はさっと身を引いたが、助かったどころか、残念だとすらちらりと思ってしまう自分が解らない。それを振り払うように頭を左右に振って、私は扉を振り返った。

「あ、ああ柿本君、入っ―――、え」

ぐい。と腕を引かれて、ドアに向かった視線はそのままUターンして社長に戻る。むぐ、と私の口からそんな音しか出なかったのは、言わずもがなそれを塞げたからだ。どくんと心臓が引っくり返る錯覚と、背後でドアが開く音、頭の中に台風がきたかのように、耳鳴りが酷かった。

「―――社長、?」

あ、ああ、ああああ。終わった。何もかも終わった私の秘書生命。ぱっと唇が離れても、私はそのまま石のようになって、動けなくなってしまった。しかし社長はそんな私をおかしくて堪らないという顔で見上げると、ひょいと体を傾けて、私越しに柿本くんに声を掛けた。

「ああ、ご苦労様です、そこに置いといて下さい」
「……はい」
「ほら、あなたも何固まってるんです?取れましたけど…目のごみ」
「え ?」

社長はにっこりと人差し指を天井に向けて立て、指先にふっと息を吹き掛けた。まるで付着していたごみを吹き飛ばすかのように。私はまばたきを何度かして黙っていたが、社長が柿本くんに隠れる角度で「合わせろ」というような視線を送ってきたのに気付き、その瞬間に金縛りが解けた。

「あっあああ、ありがとうございます社長ー!あーもう痛くて痛くて、あは、は」
「……では、失礼します」

私の嘘くさい笑顔に見送られ、柿本くんは礼儀正しくドアを静かに閉めて部屋から消えた。もともと無表情な彼の、入室前後の心境はさっぱり解らないが、感付かれることだけはどうにか避けられたのではないか…と思いたい。がくん、と首を落ちる勢いで前に傾け、思う存分ため息を吐いてから、私はキッと社長に向き直った。しかし立派な椅子から社長は忽然と姿を消しており、あれ、と私が呆気に取られたところに、背後から紙が擦れる音がした。

「じゃあ私は会合がありますから」
「はっ…な、え?しゃ、しゃちょ」

問答無用で部屋を出ていった社長の背中を、私は呆然と見詰めることしか出来なかった。会合?会合。私が資料をゴミ箱行きにした、かいご、「次の会合に必要な資料のコピーをお持ちしました」―――!?

そうだ、先ほど柿本くんが持ってきたのは会合の資料。私と別に柿本くんにも、コピーを頼んでいたということは、私がミスするのを見越していたということか。じゃあ、なんだ。私が腹をくくってさっき取った「責任」は?私がこの数分できりきりと縮めた寿命は…!?

「むっ…骸このやろ―――!」

部屋から声が洩れることも気に止めず、私は思い切り叫んだ。結局私は遊ばれたのだった、あの気紛れな社長彼氏に!



//20081123