log | ナノ

「あの、むくろさま」
「何ですか?」
「それはこっちの台詞です」

折角私が犬ちゃんと千種と骸様の分のお夕飯を作っているところに、彼は台所に立った私の背中に、それはそれは遠慮の欠片もなく圧し掛かっていらした。一時も休まず動かし続けていた包丁を持った手を止め、小さく息を吐き出しながら名前を呼べば、けろりとした声で「何ですか?」ってこっちが何ですかですよ。

「美味しそうでつい」
「今は美味しそうでも早く火ィ止めないと焦げちゃうんですが」
「違いますよ、ヒロインが」

ぅあ、肩に顎を乗せたまま喋られると耳がくすぐったいんですけど骸様、ちょ、ほら手とかどうしてお腹に回すんですか、っひ、さっ触るなっ…ていうか何さらりと恥ずかしいこと言ってんだこの人!

「ちょっ…と、邪魔です骸様!刺しますよ!」
「物騒なことを言いますね。ヒロインはそんなこと出来ませんよ」
「っ、い、いいこだから向こうに行っ「悪い子で結構です。それでヒロインと遊べるなら」

ッ あ、や、耳、舐めっ…むっ骸様骸様ほらお鍋噴き零れちゃ「ヒロイン…」あああやめてやめてやめ、そんな声ずるい…!

手からするりと包丁を奪われて、まな板の上にかたんと置かれる。肩を掴まれてくるりと反転させられると、私の頭ひとつほど高い位置にある骸様の視線とぶつかった。声は飄々としていたのに実際伺った表情は、想像していたよりもずっと艶やかで色っぽい。

「っは…ねが…っむくろさま、やめ」
「おやおや、」

ぐぐぐ、と顔が近付いてきて、鼻先が軽くぶつかった。その過ぎる距離に、彼の綺麗な瞳の色さえ明確でない。

「やめて欲しくないって顔してますよ?」
「んッ…」

耳の下辺りをゆるりと撫でられると、なんだか頭がふわふわしてきてしまった。大変だ、このままじゃ夕食抜きになっちゃう…

…と、

「ヒロインー飯まだれすかーっ」

突然台所に飛び込んできた犬ちゃんの大声に、ばくんと心臓が跳び跳ねるのを感じた。私はたちまち我に返って、前にあった骸様の胸を力一杯押す。私の力一杯なんて骸様にはどうってことないものだろうが、骸様も犬ちゃんの声に多少なりとも驚いたみたいで、抜け出すには十分の空間が出来た。長い腕をするりと掻い潜って脱出した瞬間に、犬ちゃんが頭をがしがしと掻きながら現れる。

「もう八時過ぎてんじゃ…って、はれ?骸さん何してんれすか?」
「犬…貴方って人は…」
「あ、あああっ犬ちゃんごめん、すぐ出来るからもうちょっと待っててね!」

今にもなんか危ないスキルを発動させてしまいそうな骸様と、きょとんと首を傾げて骸さんの怒りをさっぱり感じ取れていない犬ちゃんの間に割り込んで、私は精一杯の笑顔で犬ちゃんを台所から追い払った。
気まずい面持ちで振り向くと、やはりそこには不機嫌に私を見下ろすオッドアイがあった。しかしそこで怯む訳にもいかず、犬ちゃんが出ていった方を小さく指差して言う。

「…ほら、骸様も。犬ちゃんは悪くないんだから、苛めちゃだめですよ」
「………」

納得いかないとでも言いたげに骸様はじっと黙っていたけれど、やがてはあとため息をついた。良かった、聞いてくれたと私がほっとして手を下ろしたら、いきなり後頭部を掴まれて頭の頂に唇を押し付けられる。
受けた衝撃と驚きがうわあ!?みたいな声に変換される前に、骸様は一言だけ言い残して台所を出ていかれた。

『Me la pagherai』

静寂が訪れたその場所でかたかたと震える鍋蓋の音を聞きながら、私はそっと自分の頭を、骸様が触れた所を、なぜてみた。
…覚えていなさいだなんて、忘れられる訳がないでしょう、骸様。

シンクに映った私の顔は、酷く赤い。




「…ヒロイン、この魚、ほとんど焦げてる」
「あは…、ごめん千種、私がちょっと目を離した隙に」
「ヒロイン?なんでスープこんな少ないんれすか」
「あ、あの、噴き零れちゃって…だから犬ちゃん、今日はおかわりなしね、ごめんね」
「ヒロインにしては珍しいドジですねぇ」
「(あなたには言われたくなかったですよ骸様何呑気にお茶啜ってんだ)」

テーブルの端の席で身を小さくしながら、私はひたすら謝っていた。結局鍋もグリルの魚も火に掛けすぎたみたいで、鍋の中身は半分ぐらいダメになるわ、魚も黒くないところの面積の方が少ないんじゃないかと思うほどだ。料理しか能がない私なのに、夕飯も満足に作れなくてどうするんだろう。肩身が狭い。

「…ヒロイン。そんな顔しないでください」
「…だって…私」
「そっそうだびょん!全然いつも通りうまいし!」
「…千種、ほんと?」
「うん」

おお即答。千種が即答。じゃあこれは多分ほんとなんだろう、ちょっと嬉しい。いやかなり嬉しい。思わず口元の端が横に引っ張られてしまったのはさっと手のひらで隠したけれど、きっと皆にはバレてしまっていたんだろうなあ。骸様なんかにやにやしながら私を見てるけど、どうでもいいや。




「ヒロイン」
「ひぃ!?」

がしゃん!洗っていた皿を思わず水を張った桶に取り落としてしまい、幸い割れはしなかったものの喧しい音を立てた。私の顔の横からにゅっと頭を出した骸様は、シンクの中を覗き込みながら呆れたように呟く。

「…ひぃってなんですか、色気ないですね」
「ちょっ一度ならず二度までも!後ろから抱き着かないでくださいってば!」

がっしりと私を逃がさないとばかりに回された腕に力が入って、少し苦しい思いをした。流れ続けていた水をきゅっと止めて、私はさっきのお皿に手を伸ばす。

「とにかく私今洗い物してるんですから。後でにしてくださいね」
「後でならいいんですか?」
「あ、…」

そ、そうか、そういうことになるのか…
自分が無意識に恥ずかしいことを零してしまったことを悟って、私は顔を俯けたまま赤くなった。
数秒後にすぐ耳の横から、溜め息というには少し熱っぽいような吐息が吐き出される音がする。

「…すみませんヒロイン、やっぱり待てない」
「え、ちょっと骸様!だめですよ、や、だめっ」
「そんな可愛い顔するヒロインが悪いんです」
「それ責任転嫁って言うんですよ!?っきゃ、ななな何っ服に手ぇ入ってきてるんですけど!」
「入れてるのが解りませんか?お馬鹿さんですね」
「お馬鹿さんはあなたです骸様―――ッ!」



(なんか台所うっさくねぇ? 俺見てこよっかなー)(…犬、やめといた方がいい)

//20080419