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麗らかな昼下がり、雲ものんびりと空の散歩を楽しんでいる。僕の隣に座っているのは、今年中学に上がったばかりの少女。彼女が握り締めている赤い風車は、近頃湿気を増してきた風をその小さな羽に絡めながら、からからと涼しげに歌っていた。ふわり、ふわりと気紛れにそよぐ細くて長い髪は、僕にそっくりな漆黒の猫毛。ぱっちりとした瞳の形は多少違えど、それを真っ直ぐ覗き込めば、真っ黒できらきらした色が見て取れる。それは両親にも親戚にも、両手両足では足りないほどに言われてきた文句だ。

「ヒロイン」

そんなたった一人の可愛い妹の名を、自分でもおかしいと思うくらいの優しい声色で呼んだ。目を細めて風車を見詰めていた彼女は、揺らめく前髪をそっと押さえつけながら僕を見上げた。

「なあに? 恭弥お兄ちゃん」

正直にただ呼んだだけと言ったって、きっとヒロインは怒らないはずだ。何でもないと言おうと開いた口は、しかし全く別の言葉を発して。

「それ、どうしたの?」

遅れて指差したヒロインの手元。風車を頂に乗せた細長い棒のすぐ横で、赤と青の鯉のぼりがひらひらと泳いでいる。ああ、柔らかい声でヒロインはそう呟いて、風車をその人差し指でからりと回した。

「ケーキ屋さんに行ったらね、貰ったの。こどもの日限定のサービスなんだって」
「…そう。良かったね」

ヒロインはそういうの好きそうだな。ふと微笑んで頭を撫でてやれば、ふにゃりと表情を崩したヒロインが僕を見上げてきた。

「お兄ちゃん」
「何だい?」
「お兄ちゃんは鯉のぼりなんて、興味ないかなぁ?」

正直言うと、興味は、ない。でもそんなこと言えばヒロインが悲しそうに笑うのなんて目に見えているから、そんなことない、と僕は頭を振った。ヒロインは瞳を輝かせて嬉しそうに笑う。昔から表情が豊かな子だ。

「あの、ね、お兄ちゃん。あの…」
「うん?」
「………」

落ち着きなく指先で風車を弄ぶヒロインは、口ごもりながらちらちらと僕の表情を伺ってくる。促すように顎を掬って上向かせ、真っ直ぐ視線を合わせてやれば、ヒロインの頬がぱぁっと薄紅に染まった。可愛いなこいつ…僕をどうする気だ。

「う、…あーっやっぱり我慢できない!」

ヒロインは体を震わせて押し殺したように叫ぶと、僕の手を取って、握っていた小さな鯉のぼりを手のひらに押し付けてきた。

「恭弥お兄ちゃん、誕生日おめでとう!」
「ヒロイン…」
「ケーキ食べるとき言おうと思ってたけど、あたしやっぱり、夜まで待てないや」

聞きようによっちゃいかがわしい台詞を、無邪気な笑顔で言いのけるヒロイン。可愛い。すご、かわい…。ああ、僕に誕生日があってよかった、とそんなことを染々思う。ありがとうと呟く前に、ヒロインー、と部屋の奥から母さんの声がして、途端にヒロインが弾かれたように立ち上がった。どこに行くのと不満を隠しもせず彼女を見上げたら、ヒロインは年相応の笑顔を浮かべて、

「お母さんと買い物の約束してるの。お兄ちゃんは留守番しててね」
「…すぐ帰って来なよ」

細い手首を取って小さく口付けると、くすくす、お兄ちゃんってば甘えんぼさんだなぁ。照れたみたいなヒロインの声が降りてくる。離したくないなんて我が儘な感情がふつふつと湧き出るが、再度掛けられた母の呼び声に、ヒロインはするりと僕の手のひらからすり抜けていってしまった。解ってるんだ、この鯉のぼりを貰ったケーキ屋に僕のバースデーケーキを買うために行ったこと。これから出るという買い物も、プレゼントを買う為に行くこと。それが柄にもなく凄く嬉しいんだから、僕はそれ以上何も言わないまま、ドアが閉まる音と同時に、ごろりと背から倒れ寝転がった。
カラン。風車が小さく揺れて寂しそうに鳴くから、それを顔の前に翳して空に合わせてみる。流れる雲を背景に踊る二匹の鯉は、遠近法で本当に青空にたなびいてるようにも見えた。本当に僕が欲しいのは、ケーキでもプレゼントでもなくて、ヒロインと共有出来る時間なのに。…いや、ケーキもプレゼントもヒロインがくれるなら嬉しいけど…欲しいけど…。
思わず顔がにやけてしまうような、胸がぽっかりと穴空いてどこか満たされないような、複雑な気分がない交ぜになったような気分だ。誤魔化すかのようにそっと唇を寄せた風車に、まだ残っていたヒロインの香が、心の空洞を柔らかく塞いでいった。


//20080505
Happy birthday to Hibari