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昨日の土砂降りが嘘みたいに、空は晴々として雲一つなかった今朝。どこに隠れるでもなく街の天辺で煌々と輝き続けていた太陽は、そろそろ地平線の下に沈みそうになっている。代わりに顔を出した三日月もこれまた美しいもので、おまけにいつもより星も多い気がする。…と、そんなことを自室の窓から空を眺めながらぼんやり思っていると、背後から静かなノックが聞こえたので私は肩を跳ね上げた。

「っ、ど、どうぞっ」

声は裏返らずにすんだので取り敢えず安心した。キィ、と開いたドアの向こうに、さらりと眩しい白い髪が覗く。

「こんばんは」
「! あ、こんばんはアレンくん。珍しいね、こんな時間に…」

言いながら時計を見上げると、既に10時を過ぎた頃だった。こんな遅くに彼が訪ねてくるなんて至極珍しい。アレンくんはにこにこと笑いながら部屋に踏み込んでドアを閉めると、ゆったりと歩み寄って私の隣から窓の外を覗き込んだ。

「はい、ちょっとデートのお誘いに」
「ででっ、デート!?」

上目遣いに星空を見上げながら何でもないようにアレンくんは言うのに、私はいきなりのそれに激しく動揺して、今度こそ裏返った声を出してしまった。明らかにそんな私を面白がってくすくす笑うアレンくんに、私は赤面するのを意識しながら俯く。

「ええ。折角こんな綺麗な星空なんですし、ちょっと外へ出ませんか?」
「あ、そ、そうですねっ…」

アレンくんの手が窓の縁に掛かったかと思ったら、ガタンと閉められて、頬に心地好かった風が止まる。顔を上げきる前に恭しい仕種で手を取られて、「行きましょうか」と軽くそれを引かれるまま、私はその部屋を後にした。












満天の星空…という言葉がこんなにも似合う光景を、私は今までに目にしたことがなかった。時刻は夜のはずなのに、星明かり月明かりで全く暗くない。絵画だってこんなに出来過ぎていないだろうと、そんな夜空がそこにはあった。
人は本当に感動すると、何も言えなくなるらしい。ぽっかりと口を開けてただ広がる空に見惚れていると、今まで繋いだまま離れていなかった手がぎゅっと握られる。

「星が、堕ちてきたみたいですね」

慌てて口を閉じて頭半分程背の高いアレンくんの方へ視線を移すと、同じく空を見上げているのだとばかり思っていたのに、彼は朗らかに目を細めて私だけを見下ろしていた。

「星…?」

言われたことを頭の中で反復していると、アレンくんはそっと頷いて、私の髪をさらりと撫でる。こうやってアレンくんの手が私をくすぐるように滑っていく、「撫でられる」という行為が私は好きだった。そのことに彼は気付いているのだろうか。

「ええ。髪に星の光が反射して、きらきらしてますよ」

ああ、私の、髪―――…やっと合点した私の髪をもう一度愛おしそうにすくアレンくんを、私は照れることさえ忘れて見据えた。あなたの髪だって、真っ白くて月みたいに輝いて、とても美しいと思うのに。
気付いたときにはもう、私の右手は彼のそれに触れていた。アレンくんは一瞬だけ驚いたような顔をして、しかしすぐに表情を綻ばせる。それに柔らかく微笑み返すと、私の顔の横にあったアレンくんの左手が、するりと私の髪に差し込まれた。少し遅れて顎に掛けられる右手。くいと持ち上げられるままに上向くと、穏やかだけどどこか真剣みを帯びたアレンくんの顔が間近にある。驚いて咄嗟に目を閉じれば、吐息と同時に唇まで重なった。
途端に訪れた静寂が、本当に辺りに広がっているものなのか、ただ私の耳が聞こえなくなっただけなのか、そのときの私には見当もつかなかったし、考える余裕すらありはしなかった。初めて感じた唇同士がぶつかる感覚にただ、目をきつく閉じて浸るだけ。

温もりがふと離れて、その数秒後に漸くはっと我に返る。キス、だ。私にとっては初めての経験だったし、アレンくんもそれを解っていてくれたと思う。だからこんな、素敵な場所を用意してくれた。それなのに私は何も知らないで、星にみとれてアレンくんの綺麗さにみとれて、あっファーストキスはレモンの味だっけ…?どうしましょう、私驚いて味なんて認識する余裕なかったし、それに、夜食にジェリーさんからもらったオレンジを数十分前に食べたばかりだ。ファーストキスがオレンジの味なんて、ありそうでない話である。同じ柑橘系だから許容範囲内…?とずれたことを考えていたら、ねえ、と耳に馴染む柔らかい声が降りてきて、私は慌てて顔を上げる。アレンくんが静かに笑って私の喉元をくすぐりながら、問う。

「何考えてるの…?」
「あっ…の、えとっ、オレンジが…」
「…オレンジ?」

あっと思ってももう遅い、アレンくんはきょとんと声をあげると、次の瞬間小さく吹き出してくっくっと押し殺すように笑い出す。ファーストキスの直後夜食の果物のことを思い出しているなんて、大概変な奴だと思われたに違いない。私は弁解したくて口を開くが、上手い文句も見つからなくて、ただ意味のない否定の単語を並べるばかり。

「ッち ちがうのアレンくん、だって、」
「ふ、っ…あは、オ、オレンジかぁ…」

肩を震わせ目尻に滲んだ涙を軽く拭うと、アレンくんはまだ緩んだままの顔で納得したように大きく息をはく。

「確かに、そんな甘い味がしました」

途端私は赤面した。あ、甘い味って、さっきのキス…?なんて恥ずかしいことを言ってくれるんだ。

「そういえば僕も、夕飯の後摘みたてだって苺を頂いたんですよ。気付きましたか?」
「う…、わ、私びっくりして、味とかはちょっと…」
「そう、残念。…それなら」

ちっとも残念そうじゃないアレンくんが、再び私の後ろ頭に手を添える。私の目線まで腰を屈めて、角度を変えるように顔を傾けると、吐息が私の唇にかかるくらい近くで囁く。

「もっと深いのをすれば、解るかな…?」
「……!」

意地悪く微笑んだアレンくんに私は更に頬を上気させて「あ、」と声を洩らしたら、彼は満足そうな顔をして私の唇を一舐めした。びくりと体を震わせると同時、アレンくんの顔は離れていった。彼の手が私の頭上まで移動すると、あやすように軽くぽんぽんと叩かれる。

「大丈夫、そうがっついたりしないようにしますから」

アレンくんは漸く当初の目的であった空を仰いで、綺麗、と一言呟いた。一度火照った私の顔は、今日のささやかな夜風では冷ますことが出来ないようだ。耳の裏側辺りで落ち着かない心臓の音を聞きながら、私はじっと俯いていた。
彼に舐められた唇は、微かに苺の味がした。


星に願う、月に祈る

この鼓動の音がどうか夢でありませんよう

20080414
真夜中のお散歩。